23、――本能が、逃げろと告げていた
ノエルが部屋に入ってきた。
その姿を目にした瞬間、心臓が跳ねる。
考えるより先に、身体が勝手に動いていた。
ベッドを降り、彼の元へ駆け寄る。
けれど、寝込んでいたせいか、立ち上がった途端に視界がぐらりと揺れた。
足元がふらつき、床が遠のく。
「セレナ……!」
ノエルが目を見開き、すぐに駆け寄ってきた。
よろめく私を抱きとめ、近くの椅子に座らせる。
その手の温もりに、少しだけ息が落ち着いた。
「セレナ……急に動いちゃダメだよ。君は、三日も昏睡状態だったんだから」
あやすような声。
心の奥まで染み込むような優しさ。心配がひしひしと伝わる。
「ごめんなさい……それにしても、三日も昏睡状態だったのね」
「......本当に、心配したよ」
その言葉と共に、ノエルは私を強く抱きしめる。
けれど、胸の奥にはまだ冷たい影が残っていた。あの呪いのせいか、それとも恐怖の残滓か。
息をするたびに、心臓が重く、冷たい何かがちらつく。
「でも、殿下から聞いてなかったんだね?」
その問いに、身体がぴくりと硬直した。
知っているはずがない。
だって昏睡状態の説明をされる前に、私は“呪われた”のだから。
(言えない……絶対に)
ノエルは真剣に見つめてくる。
嘘なんてつきたくないのに。
「あ、えっと……」
「......セレナ、何かあった?」
その瞳が真剣さを帯びる。
先ほど、ルシアン様に呪いをかけられたこと――愛する者の命を引き換えにすること――なんて、とても口にできない。
ノエルに話せば、彼は命を投げ出そうとするだろう。回帰前のこともある、絶対に言えない。
「いえ、殿下は体調を確認してすぐに、ノエルに連絡をするって出て行かれたから……」
「……そう」
ノエルの瞳が、ほんの少し揺れた。
けれどノエルはそれ以上何も言わず、ただ私を撫で続けた。
その優しさが、余計に苦しい。
「でも、無事で良かったよ」
体温にそっと包まれ、涙がこぼれそうになる。
そして、胸の奥でまだわずかに残る冷たい違和感が、ノエルの温もりに押されて、少し和らぐ。
その時――ノックの音が響いた。
私は思わず肩を震わせた。
「失礼するよ」
扉の向こうから、穏やかな声。
ルシアン殿下がゆっくりと入ってきた。
穏やかな微笑み、整った所作。
……さっき、あの手で私に呪いをかけたなんて、誰が信じるだろう。
「……殿下、どうされましたか?」
「......おや。ふふ、そう緊張しなくていいよ」
柔らかな笑み。けれど、瞳はどこまでも冷たい。
互いに微笑みながら、目は少しも笑っていなかった。
その空気を、ノエルが敏感に察する。
「やっぱり……何かあったんじゃないの?」
「なんでもないの、心配かけてごめんなさい」
私の声は震えていた。
殿下が軽く笑う。
「僕も心配でね。様子を見に来ただけさ。夫人はまだ本調子じゃないだろう? 今日も王宮で休むといい。もちろん、公爵も歓迎するよ」
言葉だけ聞けば、優しい申し出。
けれどその笑みに、見えない棘が潜んでいる。
その奥には「拒むな」という圧さえ滲んでいた。
この人の側にいたら……。
また、何をされるかわからない。
すぐにこの場を離れなくては。
「お心遣いに感謝いたします。でも、公爵家の方が落ち着きますので……。今日、帰ります。治療をありがとうございました」
短く礼を述べる。
ルシアン殿下と一瞬だけ視線が絡む。
まるで互いの心を探り合うように。
殿下の唇の端が、わずかに上がった。
「それもそうだね。すぐに手配しよう。落ち着いたら、また見舞いに伺うよ」
「……ありがとうございます」
その一言に込められた、何か別の意味に気づく。
ノエルは黙って私たちを見つめていた。
彼の優しい瞳の奥に、微かな警戒が宿っていた。
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