18、ゆっくりと、息をして
あっという間に精霊祭の日を迎えた。
私は鏡の前に座り、侍女に髪を整えてもらっていた。
寝室を別にしたのは、あの日だけだった。それからは同じ寝台にいたのに――ただ、静かに抱きしめ合うだけで、夜は過ぎていった。
それ以上は触れない。結婚してから、触れない夜なんてなかったのに。
ノエルに気持ちを伝えたい。そう思うのに、時間が経てば経つほど、言葉は重くなって行く。
ノエルは優しいまま。怒っているわけでも、責めているわけでもない。けれど、薄い膜のような距離がある。それが、怖かった。
私も静かに言葉を飲み込んでしまう。
気づけば、化粧は終わっていた。
その時、控えめなノックの音。
「セレナ、準備は終わった?」
「ええ」
扉が開き、ノエルが入ってきた。いつもの穏やかな表情。だけど、どこか、触れられない。
「もうすぐ、王家から迎えが来る。俺もすぐ向かう」
「先に、待っているわ」
会話は普通。けれど、その間に沈んでいるものが、互いに見えてしまっている。
ノエルがそっと腕を回す。私はその胸に身を預ける。
(やっぱり……ここが私の場所)
それだけは、疑いようがなかった。
***
お迎えが到着した。
馬車から降りてきたのは、光をまとったような青年――ルシアン・ヴァルディア第二王子。
「やあ、アストリッド公爵夫妻。今日の精霊祭ではよろしく」
「ルシアン殿下……妻を、よろしくお願いします」
「ああ、大切な奥方だ。丁重に扱うよ」
軽く笑って返しながらも、ルシアンはノエルから視線を逸らさない。
ノエルもまた、目をそらさなかった。
二人の間に、見えない線が張りつめる。
「……では、セレナ夫人」
「……よろしくお願いいたします」
私は差し出された手に触れた。
その瞬間、背中にノエルの視線を感じた気がした。
振り向けなかった。
振り向いたら、泣いてしまいそうだったから。
***
馬車が動き始めてしばらく。
席は向かい合わせ。沈黙が続く。けれど、それは気まずい時間ではなかった。
ルシアン様が、不意に視線をこちらへ向ける。
「……喧嘩した?」
「え……」
「うん、やっぱり。空気でわかるよ。僕、そういうのだけは昔から得意なんだ」
言い方は軽いのに、目だけが真剣だった。
「……大丈夫? ちゃんと息できてる?」
その言葉に、自分の呼吸が浅いことに気がつく。
気づいた瞬間、胸の奥から何かがほどけた。
ぽたり、と涙が伝う。
「あ、れ……わたし……」
声が震える。
ノエルは、優しいのに。怒ってもいないのに。
その優しさに触れることが、一番こわいなんて……どうして。
回帰前も今までも、ノエルと気まずい空気になんてなったことがなかった。
だから溜め込んでいた想いが、一気に溢れた。
ルシアン様は驚いた素振りを見せないまま、そっと隣へ移り、肩を抱いた。
「言おうとしなくていいよ」
静かな声だった。
「言葉にしようとすると、自分を傷つけることがある。だから今は、ただ泣いていい」
肩に添えられた手は、強くも弱くもない。
「大事な人と向き合う時は、急がなくていいんだ。ちゃんと、心が追いつくまで待てばいい」
肩に置かれた手が、強くも弱くもない、ただそばにある温度で。
「君は、ちゃんと愛されてるよ」
その言葉が、優しすぎて。
「そう、いいね。今は、ゆっくりでいい」
ただ、肩を撫でるその手が、呼吸を戻してくれた。
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