16、それぞれの静かな夜
後半はノエル視点です。
夕食はひとりだった。
公爵家に来てから、ノエルが公務で出ているとき以外にひとりで食卓についたことなどほとんどなかった。
だから、食堂に響く食器の音がやけに大きく感じられる。
私は……悪いことはしていない。
そう言い切れるはずなのに、胸の奥だけがひどく痛んだ。
ノエルを傷つけてしまった。
愛している人を。
その事実だけが、喉の奥に苦いものを残す。
今日の料理は、ほとんど味がしなかった。
夕食のあと湯浴みを済ませ、寝支度に入る。
侍女はいつも通り、必要なことだけを淡々とこなしてくれる。
その距離が、今日は救いだった。
髪を整えてもらっているとき、ふと指先が首筋に触れる。
チクリ、と鋭い違和感が走る。
「……?」
痛いというほどでもない。
でも一瞬、何かが皮膚の内側へと滑り込んだような、ぞわりとした感覚があった。
(なに、今の……?)
そう思った瞬間には、もう違和感は消えていた。
(……気のせい、よね)
考える余裕はなかった。
頭の中は、ノエルのことばかりだった。
***
夜。
ベッドに入っても、眠気は訪れない。
ノエルがいつも眠る側の枕に、手を伸ばす。
そこには、何もない。
ただ冷たい布の感触が返ってくるだけ。
(今夜は、ひとり……)
広すぎる寝台が、やけに静かだった。
胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
ノエル。
会いたい。
ただ、それだけなのに。
――明日、謝ろう。
避けられなかったこととはいえ、傷つけたのは事実だから。
私はノエルだけを愛していると、ちゃんと伝えよう。
シーツをぎゅっと握りしめ、目を閉じる。
暗闇は静かで、やさしくなんてなかった。
***
その夜、並んでいたのは一人分の食事だけだった。
理由はわかっている。
セレナから目を逸らしたのは、俺の方だ。
怒りではない。
疑っているわけでもない。
ただ、胸の奥に刺さるものがあった。
”……ルシアン様”
彼女があの名をそう呼んだ時の、すこし柔らかい声音が、耳に焼きついていた。
精霊祭の間だけだと、そう言っていた。
仕方のないことだと、理解はできる。
それでも喉の奥がきゅうと狭くなる。
息が詰まるような感覚は、どうにもならなかった。
食事はほとんど味がしなかった。
***
夜。
寝室に戻っても、部屋は静まり返っていた。
セレナはすでに休んでいるのだろう。
扉の向こうの気配が、微かに感じられる。
……行けば、いいのだ。
部屋を開けて、隣に座って、ただ名前を呼べばいい。
それだけで、きっと解けてしまう。
俺たちは、そういう夫婦のはずだ。
けれど、足が動かなかった。
(今の俺は、きっと――彼女に何かを強いてしまう)
セレナは「大切にしたい」と思うほど、壊れてしまいそうな気がする。
離したくない。
けれど、握れば折れてしまいそうだ。
どうしてこんなにも、怖いのだろう。
精霊祭で“対”になるのはルシアン殿下だ。
社交上仕方がないことだとわかっている。
それでも、胸が軋んだ。
俺はようやく手にしたのだ。
誰よりも愛しい人を。
だからこそ、怖い。
失うことが。
一度失ったことのある彼女が、また俺の目の前で消えてしまったら――。
拳に力を込める。
指先が震えていた。
(明日は、ちゃんと話そう)
言葉にしなければ、伝わらない。
彼女の心がどこにあるのかを、確かめなければ。
セレナが眠る部屋の方へ視線を向ける。
扉は閉じられている。
その向こうに、愛しい人がいる。
たった一枚の扉が、こんなにも遠いと思ったのは、初めてだ。
「……おやすみ」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。




