12、もう......負けたわ
朝。ゆっくりとまぶたを開けると、あたたかい体温に包まれていた。
柔らかな吐息が首筋にかかり、胸の奥がくすぐったくなる。
(……ノエル)
彼の腕が、私をしっかりと抱き込んでいた。
夜の余韻がまだ肌に残っていて、身じろぎするたびに心臓が跳ねる。
シーツの感触さえ、どこか熱を帯びていた。
ふと、自分の腕に目をやった瞬間――息を呑んだ。
(えっ……なに、これ――!?)
白い肌に、紅い痕がいくつも散っていた。
慌ててノエルの腕をほどき、寝台の脇にあった鏡を掴む。
映し出された自分の姿に、声にならない悲鳴が喉に詰まった。
首筋、鎖骨のあたり、胸元、そして――お腹。
見える場所、見えない場所のあちこちに、紅い痕が残っていた。
中には小さな噛み跡まである。
そっと指先でなぞると、昨夜の熱が蘇り、頬が一気に火照った。
思い出してはいけないと思うのに、記憶は鮮明だった。
(……こ、こんなに……)
ちょうどそのとき、隣で寝返りを打つ気配がした。
「……ノエルっ!」
「おはよう、セレナ。早いね」
寝ぼけ眼のノエルが、ゆるやかに微笑む。
その無防備な笑顔に、怒りとも恥ずかしさともつかない感情が爆発する。
「早いねじゃないわよ! これ、どういうこと!?」
「ん?」
ノエルは一瞬、何のことか分からないという顔をしたけれど、私の手にある鏡に視線を落とし、そして小さく「ああ」と短く呟く。
そして――微笑んだ。
「……可愛かったから、つい」
「つい、で済む問題じゃないわ!!」
顔が真っ赤に染まる。怒りよりも、羞恥のほうがずっと強くて。
毛布を引き寄せると、ノエルは困ったように、それでもどこか満足げに笑った。
「……我慢、できなかったんだよ。セレナも、まんざらでもなかったでしょ?」
「なっ……そんなこと――っ!」
思わずカァッと耳まで真っ赤になったことがわかった。
「照れてる顔も、好きだよ」
「で、でも......っ、これはやりすぎ! もう朝の支度するから! 部屋から出てっ!」
「もう、セレナは照れ屋さんなんだから」
ノエルは笑いながら伸びをして、名残惜しそうに部屋を出ていった。
「もうっ、ノエルのバカ……!」
けれど鏡の中、頬を染めた自分を見つめて、思わず息を吐いた。
(......悔しいけど、嫌じゃない)
本当に、ノエルにはとことん甘い。
息を整え、従女を呼んで朝の支度を始める。
鏡越しに、従女の視線が一瞬、私の首元を掠める。
けれど何も言わず、ただ静かに髪を整えてくれた。
けれど――その沈黙が、いっそう恥ずかしかった。
***
支度を終えた後、いつものように二人で朝食を済ませた。
その後はそれぞれ執務室へ移動し、公務を行う。
――はずなのに。
「ノ、ノエル! これはどういうこと!?」
「え? 公務だけど?」
私はノエルの膝の上に座らされていた。
場所はノエルの執務室。彼は片手で私を抱き寄せながら、もう片方の手で淡々と書類に目を通している。
机の上には、私の書類まで置かれていた。
(これで仕事しろっていうの……?)
……そんな無茶な指示、王命でも従えないわ。
信じられずに見上げると、ノエルは平然と微笑む。
「俺は大丈夫だよ? セレナも気にしないで続けて?」
「き、気にしないでって……!」
抗議の声を上げようとしたその瞬間――首筋に、ふっと温かい息がかかった。
「......っ!」
思わず肩をすくめる。
視線を上げると、ノエルが楽しそうに口角を上げていた。
「もう、どうしたの?」
「......わざとでしょ」
「いや、全く?」
そんなわけない。
彼の目は笑っていて、明らかに“わざと”だ。
「……ちゃんとできたら、ご褒美、あげるよ」
甘く囁くような声が落ちる。
(もう……負けたわ)
私は観念して、手元の書類に向き直った。
けれど――視線の端で、ノエルの満足げな笑みがちらつく。
(……ずるい人)
その日、私はまったく集中することができなかった。
次回、「はじまりの祭典」




