4、底知れぬ不安
今晩もいつも通り、ノエルの腕に包まれながら眠りに落ちた。
その腕のぬくもりは、いつだって私を安心させてくれる。
――なのに、胸の奥に小さな棘のような不安が残っていた。
朝。
食卓に並ぶ香ばしいパンと温かなスープ。いつものように、ノエルが時折私の口に食事を運ぶ。
朝食を終えると、公務の時間がやってくる。
「セレナも、無理はしないでね。じゃあ、また夕方ごろ」
「うん……ノエルこそ、無理しないで」
いつもと変わらないやり取りのはずなのに、今日は妙に名残惜しくて。
無意識のうちにノエルの袖口をそっと摘んでいた。
「......セレナ。今日は、サボっちゃおうか」
「......だめよ」
「ふふ。やっぱりセレナは真面目だね」
ノエルは一歩近づき、そっと抱きしめてくる。
背中にまわされた腕の力が、少しだけ強い。
(このまま、時間が止まればいいのに......)
胸の奥で名残惜しさが膨らんでいく。
彼の背中が扉の向こうに消えた瞬間、心の中に冷たい滴が落ちたような気がした。
***
ノエルと別れたあと、身支度を整え始めた。
いつもの侍女。いつもの手つき。
それなのに、今日はなぜか……何かが違う気がする。
(毒矢事件のせいで、私が神経質になっているだけ……?)
チラリと鏡越しに侍女を見つめる。
穏やかな表情も、丁寧な仕草も、いつもと変わらない。
(気のせい、よね……きっと)
そう思った、そのときだった。
髪を梳かしていた侍女の指先が、するりと首筋を掠める。
ピリッ――。
針の先で突かれたような鋭い刺激が、首筋を走る。
「......っ!?」
思わず手でその場所を押さえると、侍女が心配そうに顔を覗き込んだ。
「奥様......? どうかなさいましたか?」
「いえ......大丈夫よ」
嫌な感覚は、もう消えていた。
(これは、気のせい......?)
けれど、あまりにあっけなく消えたそれが、逆に恐ろしかった。
髪を整える鏡の中、映る侍女の表情はいつも通りだった。
なのに、その瞳の奥だけが、氷のように冷たく見えたのは気のせいだったのだろうか。
***
執務室に移り、帳簿を確認する。
ペン先が紙をなぞる音が、やけに響いて聞こえた。
仕事に集中しようとするたび、先ほどの侍女の瞳が脳裏にちらつく。
(……だめ、全然集中できない)
そのとき、不意に空気が揺れた。
――”セレナ! 大変よ!”
透き通るような声が響き、思わず顔を上げる。
(あ、この声は......)
水しぶきが宙に弾け、ウンディーネが姿を現した。
透き通る水のような髪が、重力に逆らうようにふわりと揺れる。
「ウンディーネ......! 今日は、他のみんなはいないの?」
「ええ、精霊界でトラブルが起きているの。みんな、それに対応しているわ」
「......トラブル?」
ウンディーネは真剣な表情で頷いた。
「ここ数週間、一部の精霊たちの様子がおかしくなっているの。草木を害したり、仲間を攻撃しようとしたり……黒魔法の影響じゃないかと私たちは見ているわ」
「黒魔法……!?」
驚きに息が詰まる。
もしかして、ずっと感じていた底知れぬ不安や違和感も……そのせいなのだろうか。
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