1、始まりの序章
とある部屋。
ひとりの男が、ワインを転がしながらつぶやいた。
「はぁ……彼女も期待外れだったな。もう少し上手くやってくれると思ったんだけど」
唇の端に笑みが浮かぶ。
その笑みは愉快そうでいて、どこか狂気を孕んでいた。
「まあいいや。この国に精霊の加護など不要だ。俺が手を下すまで──」
くつくつと笑い、グラスを傾ける。
赤い液体が血のように揺らめき、光を反射する。
そして、吐息のような声が部屋に落ちた。
「......待っていろ、精霊使い殿」
***
ノエルとの結婚式を終えて一ヶ月。
私たちは正式に夫婦になった。
私は今、公爵家の庭園の木陰でそっと腰を下ろしていた。
あたたかな風が頬を撫で、花々が陽光を弾く。
――ああ、幸せ。
(本当に、夢みたい……)
大好きな人と結婚して、一緒に暮らしている。
それだけで胸がいっぱいになって、自然と彼の顔が浮かぶ。
……そして、どうしても思い出してしまう。
あの夜のこと。
初めて彼とひとつになった夜を。
月の光の下で、彼の体温と息遣いに包まれた――甘い時間。
思い返すだけで、胸がどきどきして頬が火照る。
(……す、すごかったわ……)
恥ずかしくて両手で頬を覆った、そのとき――。
「どうしたの、セレナ。そんな顔して」
声に顔を上げると、すぐ横にノエルがいた。
いつの間に隣に座ったのか、笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「ノ、ノエル......」
彼の瞳に映る自分が恥ずかしくて、言葉が詰まる。
そんな私に、彼は低く甘い声で囁いた。
「ふふ、俺のセレナは今日も可愛いね」
「っ……そういうところが、ずるいのよ」
胸がぎゅっと熱くなる。
この人は、私を一瞬で溶かしてしまう。
けれど――その瞬間。
背筋を冷たいものが撫でた。
ぞくり、と。
まるで誰かに見られているような気配。
「......どうしたの? 何か怖い?」
ノエルが心配そうに覗き込む。
私は小さく首を振る。
「いえ……ただ、視線を感じた気がして……」
言葉を終える前に――
──ヒュッ。
空気を裂く音とともに、頬の横を何かが掠めた。
「──きゃっ!!」
振り向けば、木の幹に矢が突き刺さっていた。
ついさっきまで私が顔を寄せていた場所に。
「......っ!」
息が止まる。
もし、あと少しずれていたら――私は。
「これは......誰の仕業だ?」
ノエルの瞳が冷え切る。
彼が木の幹に刺さった矢を引き抜くと、先端の銀が黒く変色していた。
――毒だ。
そう認識した瞬間。血の気が引く。
「……セレナに向けて、か」
ノエルが低く呟いた。その声音は、底の見えない怒りを孕んでいた。
次の瞬間、彼は強く私を抱きしめる。
「大丈夫だよ、セレナ。俺が絶対に守るから」
その声に、強張っていた身体が緩む。
けれど私は、彼の腕の強さに安心すると同時に、かすかな恐怖を覚えていた。
――まだ終わっていない。
毒殺も、コゼットとの因縁も、結婚式も、全部乗り越えたはずだった。
普通の幸せをようやく掴んだと思っていたのに。
それでもまだ、何かが動いている。
見えない闇が、私たちを狙っている?
(......どうして? まだ、終わっていないの?)
揺れる庭園の光は暖かいのに、胸の奥に忍び込む影は、確かにそこにあった。
連載再開します。よろしくお願いします。




