もう、これでいいのかもしれない(sideコゼット)
本当なら、処刑されるはずだった。
――愚かにも、黒魔法に手を出した自分自身の選択によって。
あの禁忌に触れてから、私は止まれなくなった。
黒い欲が次々と湧き上がり、使用する頻度も増えていく。
ついには――お姉様を殺さなければ、なんて恐ろしい考えまで浮かぶほどに。
そんな私を、黒魔法の呪縛から解き放ってくれたのはお姉様だった。
精霊の力が私を包んだ瞬間、曇っていた思考が一気に晴れていく。
……そして押し寄せたのは、止まらない後悔と、涙だった。
これは、私自身が選んだ結果。
今さら悔やんでも、運命を受け入れるしかない――そう思いながら、繋がれた鎖を強く握りしめていた、そのとき。
地下牢の奥から足音が響いた。
現れたのはノクス殿下だった。
死を覚悟していた私にとって、彼の言葉は信じ難いものだった。
「俺が必要なんだ。他でもないコゼット......君を」
私は罰せられなければ、ならない。
なのに、心のどこかでずっと欲しかった言葉を投げかけられ、まっすぐな気持ちまで伝えられたら――。
(希望を、持ってしまうでしょう......?)
愚かな私は、結局、ノクス殿下の手を取って生き延びたのだ。
***
それから向かったのは王宮の外れにそびえる幽閉塔だった。
石造りの塔は重苦しく、空気さえ異様な雰囲気を放っている。
私は真っ黒なローブを纏い、ノクス殿下に手を引かれて塔へ向かっていく。
「今回の処置は俺の独断だ。衣食住には困らないようにするが、使用人との接触は控えてもらう。世話は自分で頼むことになる。不便をかけてすまない」
「いえ……命を助けていただけただけで、十分です」
幽閉塔の扉をくぐり、用意された部屋に足を踏み入れた瞬間――私は息を呑んだ。
「……これ……私の、部屋……?」
そこには淡い桃色の家具と、見覚えのあるぬいぐるみ、花瓶が並んでいた。
まるで、グランディール公爵家の私室をそのまま再現したかのような光景。
「君の実家の部屋を参考にした。その方が落ち着くだろう?」
ノクス殿下はさらりと口にする。
(あの家具……廃盤のはずなのに……どうやって……)
これ以上、考えるのはやめることにした。
「では、公務が落ち着いた夜にでも来る。待っていてくれ」
まっすぐな瞳に射抜かれ、心臓がぎゅっと縮まる。
「はい、ノクス様……」
***
塔での生活は不思議なほど整っていた。
食事は扉の前に置かれ、食べ終えると誰かが片付ける。ドレスや日用品も同様に届けられる。
誰とも顔を合わせることはない。
(本当に徹底している……)
この塔に私がいることを知っているのは、ノクス殿下だけ。
もしかすると、お姉様やノエル様は知っているかもしれないけれど――真実はわからない。
ふと窓辺に立ち、空を見上げた。辺りはすっかり日が落ちていた。
高い塔の窓からは、王都の灯りが小さく滲んで見える。手を伸ばしても届かない光を眺めていると、胸の奥にじわりと「ここからは、もう出られないのだ」という現実が染み込んでいく。
夜。湯浴みを終えた私は、長い髪をひとりで乾かしていた。
使用人がいない生活は初めてで、慣れないことばかりだ。特にこの髪――絡まないようにするのは一苦労だった。
「……いっそ、切ってしまおうかしら」
独り言が漏れる。誰に見せる髪でもない。生活しやすいほうがいい――そう思い始めたときだった。
――コンコン。
「えっ、ノクス様……!?」
ノックの音に、思わず立ち上がる。
鏡に映るのは、化粧もしていない素顔、濡れた髪、バスローブ姿の自分。
(こんな姿、見せられない……!)
扉がゆっくりと開かれ、見慣れた黒髪が覗いた。
「コゼット、体調はどうだ――って、すまない。タイミングが悪かったな」
ノクス様は顔を赤くし、腕で顔を覆う。その姿を見て、私の頬も一気に熱を帯びた。
沈黙が続く。
しばしの間のあと、彼は迷いなく部屋へと踏み込んだ。
「......ひとまず、手伝おう」
「えっ……!」
促されるまま鏡の前に座らされると、ノクス様はタオルを手に取り、私の髪を丁寧に拭き始めた。
指先が首筋を掠めるたび、くすぐったさと、妙な緊張が走る。
「髪、綺麗だな」
低く落ちる声に、心臓が跳ねる。
「でも、一人では大変で……切ろうかなって思っていました」
「そうか。長い髪は君によく似合っていたが……」
胸がぎゅっと痛む。ずっと大事にしてきた髪だ。
思わず、視線を落とした。
「だが、きっとどんな髪型でも似合うのだろう」
その言葉に、心がふわりと温かくなった。
「......今度、ノクス様が切ってくださいますか?」
「俺でいいのか?」
「はい、ノクス様がいいです」
「そうか、では――切った髪はもらってもいいか」
「......冗談、ですよね?」
「......」
「......え」
沈黙。
まさかの無言に、背筋がぞくりとした。
(……本気? ノクス様って、こういう人だったの!?)
彼は何事もなかったように髪を丁寧に梳かし続ける。壊れ物を扱うような手つきで。
「今日はここで休む」
「......え?」
聞き間違いかと思った。けれど、彼は淡々と続ける。
「今日に限らず、これから何度かあると思う。覚悟してくれ」
心臓が大きく跳ねる。けれど同時に、背筋にはひやりとしたものが走った。
婚約者であった私は、処刑されたことになっている。
つまり彼には今、婚約者がいない。
そんな王族が幽閉塔で夜を過ごすと知られれば、噂にならないはずがない――。
(どうして……なぜ、ここに留まろうとするの……?)
動揺を隠しきれず、視線が泳ぐ。けれど、ノクス様は一切の躊躇を見せなかった。
「君が何を気にしているのかは、わかっている。だが、大丈夫だ。うまくやる」
静かな声音とともに、ノクス様は私の髪を一房、指先でそっと掬い上げた。
そのまま唇を寄せ、柔らかく口づける。唐突な仕草に息を呑んだ。
ノクス様は真っ直ぐに見つめる。逃げ場を与えないほどの強い眼差し──それはまるで、閉ざされた世界の中で唯一の拠り所を提示するようだった。
「ノクス様......」
――私の世界は、確実に狭まった。
もう他の誰にも会えない。けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
目の前の彼が、真っすぐに私を見つめているから。
それだけで、胸が満たされる気がした。
彼さえいれば、もう他のことは……どうでもいいのかもしれない。
――そう思ってしまった夜だった。
間章は一旦これで締めます。
再来週より第二部の連載再開します。




