40、世界が絶望に変わったとき(sideノエル)
守るはずの人を守れなかった無力感が胸を押しつぶす。
鎖が擦れる音だけが、やけに大きく耳に残った。
重苦しい沈黙の中、浮かぶのはただひとりの面影。
ーーセレナ。
彼女を守るためなら、全てを捨てる覚悟があった。
あの時も、そう決めたのだ。
思考は自然と、あの頃の記憶へと遡っていく。
おそらく一目惚れだったのかもしれない。
俺は、グランディール公爵家の令嬢二人のどちらかとの婚約をと言われていた。
正直、最初はどちらでも構わないと思っていた。
強いて言えば正統な血筋のコゼットだろう、と。
そんな曖昧な心のまま出席したグランディール家主催のお茶会で、事件は起きた。
「きゃー!汚いわね!」
「こっちへ来ないで!」
令嬢たちの悲鳴。視線の先には、汚れた一匹の猫。
怯えているコゼットの姿もあった。
(......なんだ、ただの猫じゃないか)
冷めた気持ちで眺めていた俺は、すぐに騒ぎが収まったのを確認して気にも留めなかった。
だが、ふと気づく。セレナ嬢の姿がない。
(どこにいるのだろうか......?)
胸騒ぎに突き動かされ、庭園を探す。
そこにあったのは、光り輝くような銀髪と——猫を抱く彼女の姿だ。
「......怖かったね。大丈夫だよ」
濡れタオルで体を拭きながら、優しく語りかけるセレナ。
「みんな怖いみたいね。あなたはこんなにかわいいのに」
猫が「にゃー」と鳴くと、彼女は小さく笑った。
「ふふ、かわいい」
その笑顔に、心臓を鷲掴みにされた。
(ああ、結婚するなら彼女がいい)
それが、俺の恋の始まりだった。
それから俺たちは婚約した。
共に過ごす日々の中で、彼女への想いはますます深まっていった。
使用人に向ける気遣いも自然で、心から感謝の目を向ける人だった。
元々平民だった彼女を蔑む者もいたが、俺にはそれすら愛おしく映った。
しかしある日から、空気が変わった。
「ねぇ知ってる?セレナ様、コゼット様をいじめてるって噂よ」
そんな噂が、ふとした瞬間に耳に入る。
(は? 何を言っているんだ)
信じがたい言葉だった。あの笑顔、あの仕草——すべてが優しさそのものだったから。
それでも噂はどんどん膨らみ、いつしか事実のように語られる。
コゼットは否定しないどころか、巧みに“証言”を重ねていくように見えた。胸の奥がざわつく。
(……くそ、絶対に許せない)
それと同時に——彼女自身に異変が起きた。
本当に、コゼットをいじめはじめたのだ。
けれど俺の目には、どうしても違和感があった。
「ふん、本当の娘だから何? 私には何も敵わないくせに?」
コゼットと向き合うと、セレナの眼差しが急に冷たく、言葉は刃のように尖る。
顔から色が抜け、淡々と罵る声が落ちる。時には叩き、突き飛ばすことさえあった。
……まるで別人のように。
だが二人きりの時、彼女は以前のままのセレナだった。
優しく、温かく、俺が惚れた彼女そのもの。
……何かがおかしい。
受け入れたくないからそう思っているのか?
いや、違う。俺の直感が叫んでいた。
いつもコゼットは、誰よりも柔らかく笑っていた。
だが、その笑顔の裏で、彼女の瞳だけが笑っていなかったのだ。
皆が気づかぬその冷たい光に、俺の胸だけがざわついていた。
そして彼女の周囲に漂う、言葉にできない嫌な気配。
(――絶対に何かあるはずだ)
だからこそ、俺は誓った。
誰が何を言おうと、俺だけはセレナの味方でいよう、と。
もし彼女に何かあれば、守ってみせると。
それなのに、セレナは誰にも頼らず、ひとりで立ち続けていた。
(……頼ってくれていいのに)
ほんの少し、胸に寂しさが刺さる。
そしてズルい感情が芽生えた。
孤立した彼女の唯一の味方は俺だ。俺だけなんだ、と。
その事実に酔い、彼女を独り占めできている気がした。
——それが、俺の罰だったのだろう。
だから気づけなかった。
ある日のティータイム。
いつもと変わらぬ穏やかな時間のはずだった。
突然、彼女が咳き込む。
「……ごほっ」
白いティーカップを赤く染める鮮血。
彼女の表情は、すでに虚ろだった。
「セレナ……!!」
俺は彼女を抱きとめ、必死に声をかけ続ける。
けれど、その身体はどんどん冷たくなっていく。
彼女の唇がわずかに動いた。
けれど音にはならず、何を伝えようとしたのかもわからない。
ただ、その微かな仕草だけが胸に焼きついた。
「お願いだ......死なないでくれ......!」
そして。
力の抜けた腕が、すとんと地面に落ちる。
「あああああああああああ……!!!」
俺の世界が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。




