35、うふふ、ごきげんよう
そして迎えたその日。
ノエルが一日、公務に出る日になった。
「ごめんね。夕食までには戻るから」
「うん……気をつけて」
答えながらも、声が少し掠れてしまう。
「……はぁ。やっぱりだめだ。最後に、もう一度だけ」
「ノエル......!?」
不意に抱き寄せられて、心臓がどくんと跳ねる。
彼の腕の力が惜しむようで、胸がきゅっと締めつけられた。
やがてゆっくり身体を離したノエルが、冗談めかして小さく笑う。
「ん——......、やっぱり行かなきゃだめ?」
その言葉に、思わず笑みが溢れた。
本当は「行かないで」と言いたかった。けれど、彼も寂しいと思っていてくれている。
その事実が、私を安心させた。
「......だめよ。まってるから」
「わかってるよ。じゃあ……必ず戻るから」
その一言が、ほんの少し場を和ませた。
私は微笑んで送り出す。
けれど、背を向けて歩き去る彼の背中を見つめるうちに、胸の奥がじんわりと寂しさに染まっていく。
——いつのまにか、ノエルが傍にいることが当たり前になっていたのね。
そんな自分に気づき、むず痒さを覚えていた。
***
食事の時間になった。
テーブルに並ぶ料理を前にして、ぽつりと息をつく。
(今日は……ひとり)
ノエルが無理やり食べさせてこようとした時は「もう勘弁して」と思ってたのに。
今は、彼がいないことがこんなにも味気ない。
矛盾しているわ......。
(本当に、重症.....)
自嘲して顔をぶんぶん振った。
(......はあ。早く帰ってこないかしら)
***
けれどその夜。
夕食どころか夜になってもノエルは戻ってこなかった。
私はすでに、眠る準備さえ整えている。
最初は「公務が押しているのだろう」と思った。
けれど——これほど遅いのは、おかしい。
(ノエル……どうしたのかしら)
胸の奥に、得体の知れないざわめきが広がる。
——ガタッ。
唐突に、部屋の静寂を裂く音。
(ノエル……?)
反射的に彼の顔が浮かぶ。
けれどすぐに、違うと悟った。
音のした方向は——窓。
冷たい風がカーテンを揺らす。
私は思わず身構える。
(何? 誰……?)
闇の中、影がするすると濃くなっていく。
心臓が、喉の奥まで競り上がるように脈打った。
思わず息を呑む。背筋がぞくりと冷たくなる。
やがて、その影は姿を現す。
「——うふふ。ごきげんよう、お姉様」
月明かりを背に、微笑んで立っていたのは——コゼットだった。




