12、甘美な抱擁の先に
今日は、ノエルは公務に出ているらしい。
屋敷の中には奇妙な静けさが漂っていた。
(……少し、歩いてみよう)
ずっと部屋にこもっていたせいで、身体が鈍っている気がする。
特に止められることもなかったので、私は廊下へと足を運んだ。
――けれど。
(……視線、を感じる)
人気のないはずの廊下で、ふと背中がぞくりとした。
振り返っても誰もいない。けれど、どこかの扉の隙間から覗かれているような、そんな気配が消えない。
気のせいだと自分に言い聞かせ、歩を進めた。
そのとき――。
「……セレナ様、どちらへ?」
廊下の角を曲がったところで、ふいにメイドのひとりに声をかけられた。
「ちょっと……体を動かしたくて」
彼女は微笑んだものの、その笑みにどこか張りつめたものを感じた。
「でしたら、庭にご案内しましょうか? ……ご主人様から、“あまり館内をお一人で歩かれませんように”と仰せつかっておりますので」
(……え?)
思わず言葉を失う。
「いえ、でも……そんなつもりはなくて。ただ、少し――」
「……では、すぐにご案内いたしますね」
有無を言わせぬ微笑み。
それは“優しい圧力”のようで、私の胸をじわりと締めつけた。
(ノエルが……?)
――余計な人間を近づけたくない。
そう、彼は言っていた。
(まさか、それって……私が、他の人と関わることすら……)
胸の奥が、静かに冷たくなっていく。
それは寒さではなく、言葉にできない“恐怖”だった。
庭までの道のり、メイドは終始柔らかな笑みを崩さなかった。
けれど、その目は一度も笑わなかった。
(……私、監視されてる?)
庭に出た途端、花の香りが風に乗って広がった。
けれど、どこか色を失った世界に見えるのは、気のせいだろうか。
”甘やかされている”確かにそう感じるのに。
なぜ、こんなにも息苦しいの?
そっと、手すりに触れる。
その冷たさだけが、現実感をもたらしていた。
(……ノエル)
あなたの優しさは、本当に“私のため”なの?
回帰前とはどこか違う温度に、私は戸惑っていた。
***
ノエルが屋敷に戻ってきたのは、夕暮れが空を茜に染めたころだった。
「ただいま、セレナ」
開口一番、それだけを告げ、彼は自然に私の部屋へ入ってきた。
(あれ.....?)
ノックが、なかった。
いつもなら「礼儀正しいノエル」らしく、必ず声をかけてくれていたはずなのに。
「……おかえりなさい」
私が微笑むと、彼はほっとしたように目を細め、すぐそばの椅子に腰掛けた。
「体調、悪くなってない? 歩きすぎて疲れてない?」
「ううん、平気。庭まで少し散歩しただけだから」
「ああ……庭か。ついて行けなくて、ごめんね」
(……謝る必要なんてないのに)
むしろ、わたしの方が少し申し訳なさを覚えた。
でも、そんな空気を払うように、ノエルはふと立ち上がり、ためらいなく私のすぐそばまで来る。
「今日は……こっち、座ってもいい?」
「え……?」
「セレナの隣。君のそばが、一番落ち着くから」
距離が一気に詰まる。
視線が絡まり、頬が熱を帯びるのを止められない。
ノエルは少し俯き、ためらいがちな指先で私の手を包み込んだ。
その指先は、わずかに冷たい。
「......ちょっと、過保護かもしれない」
低く落とした声は、耳元でふわりと震える。
「でも、セレナが......どこか遠くに行ってしまう気がして」
目を逸らさずに告げるその瞳の奥で、何かがかすかに揺れた。
「窮屈かもしれないけど......許してくれる?」
そう言って抱きしめられた瞬間、胸の奥まで温もりが流れ込む。
けれど、その腕はわずかに震えていた。
(......あなたは、何をそんなに怯えているの?)
確かに、息苦しさを覚えた。
でも、それでも拒むことなんてできなかった。
私は、静かに彼の背中を抱きしめ返していた。
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