9、波紋の始まり
ノエルが部屋を出たあと、セレナはひとり、考え込んでいた。
ウンディーネは「力は戻っている」と言っていたけれど、どうやって使えばいいかまでは教えてくれなかった。
手に僅かな熱を帯びているような感覚はある。
とりあえず念を込めてみる。
……反応なし。
手を振ってみたり、ぎゅっと握りしめてみたりもした。
(やっぱり、ダメ……)
熱だけはあるのに、それ以上はない。
この力が本物なら、いったいどうすれば使えるの?
そもそも、何ができるのかさえ分からない。
(精霊使いって……どんな風に力を使うの?)
答えのない焦燥が胸を焦がす。
このままじゃ、何も変えられない。
あの未来に進みたくないのに。
途方に暮れているとふと、思い出した。
(……そういえば、コゼットは目覚めたのかしら)
コゼットの誕生パーティーで私とコゼットは同時に倒れた。
あれは、もしかしなくとも精霊の影響なの?
そう考えていた、その時。
--"ええ、そうよ!"
突然、透き通るような高音が耳元で声が響く。
「え......!?」
この声は、まさか......
そして目の前に現れたのは、透き通るような水の髪、水しぶきのように揺れる衣をまとう少女--ウンディーネだった。
「さっきぶりね!セレナ!」
「……あなた出てきていいの?」
思わず周囲を見回してしまう。人の気配はないけれど、まさかまた堂々と姿を現すなんて。
「あの時は、仕方なかったのよ!あの女を一刻も早く止めなきゃ行けなかったんだから!」
ウンディーネは両手を広げ、大げさに肩をすくめて見せた。まるで自分の行動を正当化する子どものように。
「それに、大勢の前だったじゃない?今は周りに誰もいないから大丈夫よ」
彼女はくるりと宙に舞い、セレナのすぐ近くまで滑るように寄ってくる。
「やっぱり……コゼットも倒れたのは、あなたのせいね?」
セレナが問いかけると、ウンディーネは口元に指を当てて、いたずらっぽく笑った。
「ふふ、そうね。でも感謝して欲しいくらいだわ!」
「だってあのままだと、また同じ未来が繰り返されるところだったんだから!」
「……ありがとう」
素直にそう言うと、ウンディーネは満足そうに頷く。
「ところでセレナ!あなた、私の水の力くらいは使えるはずよ?」
唐突に身を乗り出してきたウンディーネ。セレナは思わずたじろぐ。
(また急に……!)
その瞬間だった。
--コンコン
扉から控えめなノックの音が響く。
「!」
ウンディーネは一瞬目を見開き、すぐに不機嫌そうに舌打ちした。
「チッ、タイミング悪いわね……またあとで!」
彼女の姿は水の波紋のようにかすれ、すぐに空気へと溶けて消えていった。
(……行っちゃった)
残された水の気配だけが、かすかにセレナの肌を撫でていた。
まるで、夢から醒めたあとの静寂。
ふう、と小さく息を吐いたその瞬間――
「セレナ。入ってもいいかな?」
扉越しに届いた、落ち着いた声。ノエルだった。
現実に引き戻されるような気配に、セレナは一瞬だけ目を伏せる。
そして気持ちを切り替えるように顔を上げ、小さく返事をした。
「……どうぞ」
ゆっくりと扉が開く。
ノエルは、金の髪をさらりと揺らしながら現れた。片手にはトレイ。その上には、湯気の立つスープと、丁寧にカットされた果物が乗っている。
「食欲はどう? 昼食を持ってきたよ」
その言葉に、セレナは一瞬驚く。
まさか、婚約者である彼がわざわざ食事を運んでくるなんて。
(使用人に任せればいいのに……)
もちろん、心配してくれているのだろう。目の前で倒れたのだから。
「ありがとう。食べられそうよ」
スープの香りがふわりと鼻をくすぐる。
ノエルは「よかった」と柔らかく微笑みながら、トレイをテーブルに置いた。
その所作は丁寧で、まるで壊れ物でも扱うようだった。
「じゃあ……」
彼はそのままスプーンを手に取り、スープを掬って――
そのまま、こちらに差し出してきた。
「え!?ノエル!?」
「ん?」
「ええっと、その……自分で食べられるから……」
混乱が先に立つ。まさか、口元まで運ばれるとは思わなかった。
だんだんと顔に熱が集まってくるのが、わかった。
けれどノエルは、どこ吹く風とばかりにスプーンを静かに差し出したまま、目を細める。
「......食べてくれないの?」
その声が妙に優しく、心に触れてくる。
(う……ずるいわ……)
結局、セレナはゆっくりと口を開け、ノエルは満足そうにスプーンを運んできた。
口の中に優しい温もりが広がる。それと同時に、心臓が早鐘を打ち始めた。
(ちょ、ちょっと……何この空気……!)
ノエルの眼差しはやわらかくて、けれどどこか見透かされているようでもあって。
自分でもどうしていいかわからないくらいに、体の芯が熱くなる。
(……本当に、回帰前と違いすぎて……)
この優しさにどう応えればいいのか。
顔の火照りは冷めず、鼓動のうるささにさえ気づかれるのではと、不安になるほどだった。
これは――ただの看病なの? それとも……
私の知らない“未来”が、今ここから始まっているの?
スプーンをそっと口に迎えながら、セレナはわずかに目を伏せた。
知らない感情が、胸の奥にそっと降りてきていた。
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