最終話「ほんとうのはじまり」
執務室で穏やかな時間を過ごしていた時。
カップに残った紅茶がまだ温かい午後、ノエルが不意に、拗ねた声で呟いた。
「セレナ、最近……すごく楽しそうだよね」
思わず笑いそうになる。
だって、眉間にほんの少し皺を寄せて、わかりやすくむくれているのだもの。
「急にどうしたのよ」
「だって。全然構ってくれないから」
「ノエルだって一緒にやってるじゃないの。誰よりも真剣に」
そう言うと、ノエルは一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その視線は、私のしてきた支援や研究の話をずっと見守っていた証のように優しい。
「……言ってみただけだよ。俺だって大切だから、セレナのやってることは全部」
「大切?」
「当たり前でしょ。セレナと過ごす国なんだ。守らないでどうするの」
胸の奥がじわりと満たされる。
こんな言葉をくれるなんて、反則だ。
「でも――今日はそれくらいにしてさ」
ノエルが椅子を引き、膝をポンポンと叩いた。
「ほら。こっち、おいで?」
その声音が甘すぎて、抵抗などできるはずがなかった。
静かにノエルの膝へ腰を下ろす。抱き寄せられた瞬間、世界がぬくもりで満たされる。
「もうすぐ……結婚して一年だね」
「そうね。本当にあっという間だったわ」
ノエルは私を向き合わせるように抱きしめ直し、強く、けれど震えるように腕の力を込めた。
「……セレナが生きてて良かった。こうして、触れて、声を聞けるなんて……夢みたいだ」
「私はもう、どこにも行かないわ」
「でも、今でも時々見るんだよ。回帰前の……セレナを失った日の夢を」
「それなら私だって……ノエルが呪いを解くために命まで差し出した時、もう……二度と目を開けないんじゃないかって、怖かったんだから」
視線が絡まり、ふたりで小さく笑いあう。
「俺たちって……似た者夫婦だよね」
「ふふ。そうみたいね」
そっと唇を重ねる。
最初は触れるだけ…けれどノエルが深く求めてくる。
息が混ざり、心臓が熱く弾む。
離れた瞬間、ノエルの瞳が甘く滲んだ。
「今日は……このまま、二人きりでいい?」
「……うん」
裾を握った私の手に、ノエルの指が優しく絡む。
そのまま抱き上げられ、扉がゆっくり閉じる。
――ふたりだけの、甘い時間へ。
***
そして、今日は結婚記念日。
気づけば、ノエルと夫婦になって一年が経っていた。
お祝いの日。
だけどその前に、どうしても伝えたいことがあった。
ノエルの部屋へ向かうと、彼はちょうどジャケットを羽織っているところだった。
「あれ、セレナ?向こうで待ってて良かったのに」
「ふふ、待てなかったの。早くノエルに言いたくて」
「言いたいこと?」
私はそっと自分のお腹に手を添えた。
「――家族が増えるの」
「……え?」
「ここにいるの。私とノエルの、ふたりの赤ちゃんが」
「セレナ……!」
強く抱きしめられ、すぐに慌てて離される。
「あっ、ごめん!強すぎた?痛くなかった?」
「もう……ノエルったら」
今度は私から抱きつく。
胸に顔を寄せると、ノエルの心臓が驚くほど早く脈打っていた。
「これから、もっと賑やかになるわね」
「……うん。セレナと子どもがいて、こんなに嬉しいことってある?」
ノエルの声は震えていた。
彼が私のために命をかけてくれた過去――そのすべてを思い返す。
毒殺された回帰前の世界。
それでも私を諦めなかったノエル。
呪いに倒れた私に、自分の命を差し出してまで手を伸ばしてくれた。
そんな人との子が、ここにいる。
「ノエル、愛しているわ」
「俺も……心から愛してる」
唇が触れ合う。
未来が静かに重なっていく音がした。
この人と生きていく。
その約束だけで、世界はどこまでも優しくなる。
――これは、失われた未来を取り戻した二人が、
やっと辿りついた“ほんとうのはじまり”の物語。
あの日、失われた未来。
でも、あなたが諦めなかったから――
私はもう一度、生まれ直せた。
そして、ここからまた、未来へ私たちは――歩き出す。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
ノエルとセレナの物語を最後まで見届けていただけたこと、心から感謝しています。
二人が“たどり着いた未来”を、読者の皆さまと分かち合えたことが、とても嬉しいです。
本編はこれで完結となりますが、
彼らの日常や新しい家族のお話など、ゆっくりと番外編でも描いていけたらと思います。
またどこかのページでお会いできますように。
ありがとうございました。




