揃いゆくピース
ちょっと長くなりました(ほぼ倍)。
それとあけましておめでとうございます
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クロパトキンが帰国した。それと入れ替わるようにして一隻の船が横須賀に入港する。私は家でレディーの世話をしているときにその知らせを受け取った。
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
明日、横須賀へ向かうことを海軍に連絡し了承を得た。そして翌日、汽車に乗って横須賀へ。以前と同様に鎮守府から迎えがあり、彼らに誘導されて横須賀軍港に向かった。
「おー、あれだあれだ」
目に入ったのは一隻の近代戦艦。その名は尾張。山城型戦艦の末っ子だ。イギリスで建造され、各種の試験を経て日本へと回航された。八四艦隊計画では戦艦八隻、大型巡洋艦四隻の建造が計画されたがその全てが完成。日本へと配備されたことになる。
「閣下は尾張をイギリスでご覧になったことが?」
「ああ。エドワード七世の戴冠式に合わせて渡英したときにな」
案内してくれた海軍士官に話す。初めての戦艦――伊勢と日向ができたときは暗中模索という有様で海軍が上へ下への大騒ぎ。この世に二つとない宝物を扱うように大切に大切にされた。
しかし今や慣れたもの。尾張には同型艦で訓練を積んだ乗員が乗り組んでおり、機械的な特徴を把握すれば戦力化は完了する。山本によるとおよそ半年くらいだそうだ。
これで大陸で戦争をするために必須といえる制海権を確保するための艦隊がすべて揃ったことになる。史実通り第一艦隊には戦艦が、第二艦隊には大型巡洋艦が配備されることになっていた。後者には速力や防御力で劣るものの、攻撃力は匹敵する日清戦争の主力艦だった鞍馬型四隻も加わる。よって日本海軍は戦艦八隻、大型巡洋艦八隻から成る大艦隊を保有することになった。
陸軍はほぼほぼ日清戦後拡張を終えていたが、海軍もようやくこれを完了。軍備という面では日露戦争の準備はその九割が終わっていた。後日、桂たちには対露交渉に遠慮は無用と伝える。交渉も佳境に差し掛かっているらしい。目下の焦点は第三次撤兵が履行されるか否か。その結果次第で合戦準備となるかもしれない。
交渉の行方は政治に携わる者として気になるところだが、完全に桂たちに任せているので成り行きに任せるしかない。なるようになるさ。
元帥は生涯現役なので一応は現役軍人。ただ実態としては隠居老人だ。たまに軍に顔を出すことはあるものの基本はノータッチ。あとは知人から人を紹介されたり紹介したり、天皇のお召しを受ければ参内したり。それ以外は悠々自適に過ごしている。
こういう生活を送るようになったのは桂内閣成立以後。すると今まであまり連絡をとらなかった大久保から頻繁に呼び出されるようになった。護衛を引き連れ、レディーに跨ってぽくぽくと大久保邸に向かうことが多い。そういう日は決まって彼女はご機嫌だった。
なぜ呼び出されるのかといえば囲碁の相手である。なんでやねんと思ったのが顔に出ていたらしい。忙しくてできなかったが、半ば隠居した今なら存分にできるぞとのこと。もちろんただ単に遊びとして碁を打つのではなく、政界の情報や意見を交わしながらの対局である。
「新型艦はどうかね?」
「素晴らしい出来だと思います」
尾張のことを訊ねられたので、最新の装甲板を備えて防御力がさらに向上していると答える。海に浮かぶ鉄の城だと。大久保はなかなかいい表現だね、と言いつつ容赦ない一手。こちらのミスをしっかり咎めてくる。
「それで、対露交渉は?」
「あまりよろしくなさそうです」
国内外の情報を仕入れているが、進展はあまり見込めない。日本は満韓交換論を持ちかけたがロシアは拒否。最新の提案は朝鮮半島の北緯三九度以北を非武装地帯にするというものだったそうな。これは日本側が呑めないと拒否。以後、話し合いは平行線らしい。
「軍もできることは始めています」
まずは満州における現地協力者の確保を含む諜報網の強化だ。当初は私が浮いた予算で細々と運営していたが、日清戦争などで情報面から貢献。有用性が認識されて拡充が進んでいる。
私が発足させたものなので軍と警察(内務省)は連携がとれていたが、外務省も似たようなことをしている。これらの調整は必須だということで私が首相(第二次内閣)のときに四相会議を創設した。首相、外務、内務、軍務の四大臣が出席して国家の安全保障について話しあうもので、事務局も内閣書記官長(現在の官房長官)の下に設置。各機関の取りまとめを行い指示も出す。
各方面から抵抗もあったが、貧乏国家なんだから経費の削減には努めるべきということで押し切り統合整理した。政党(自由党、政友会)が予算の膨張を容認する代わりに経費節減を要求していたことも追い風となった。
さらに我々の諜報活動を後押ししてくれているのがロシアである。彼らの満州占拠は清国の怒りを買った。当然だ。多少の利益を与えてまで返還条約を結んだのにそれを反故にされたのだから。憤っているのは清国政府高官から日本に留学してきている留学生たちまで様々。私たちはそこに接触した。
「満州におけるロシアの動きを探れば交渉の糸口が掴めるのではないか?」
そんな感じに上手く理由をつけて満州で情報収集するよう唆す。何なら協力するよ、と軍から諜報員も出して現地で指導にあたらせている。李鴻章亡き後に清国で台頭する袁世凱にもコンタクトをとった。
「財貨や民を守り、また外交においても少なからず支援をしてもらっている。これくらいは何てことない」
袁世凱は日本から帰国した留学生やその縁者(日本の諜報員)の他、選りすぐりのエリート士官を満州各地に配置した。彼らが現地人を組織して諜報網を築き上げる。元締めは北京であったり各地の外交館にいる日本の外交官や軍人だった。
「親切にした効果が早速出ましたな」
と小村は喜んでいる。たしかに袁が協力的なのは喜ばしいことだが、手放しで喜べることでもない。
「彼の国には『夷を以て夷を制す』という言葉がある。我々が清国を利用するように、清国もまた我々を利用していることを忘れてはいかんぞ」
中国の歴史は外交政略の積み重ねといえる。さもなくば大陸のど真ん中に大帝国なんて築けない。政治的な立ち回りでは彼らが一枚も二枚も上手。油断は禁物だと戒めた。小村も心得ていますと応じる。実に頼もしい。
諜報網の整備によって満州におけるロシア軍の動向は掴みやすくなった。なかでも解像度がぐぐっと上がったのが旅順要塞である。秘密保持が厳格で要塞を建設しているということくらいしかわからなかった。しかし諜報網のおかげで搬入される資材などが判明し、どのようなものなのか多少は想像できるようになる。
「ベトン(コンクリート)で覆い、大砲や機関銃で守られている要塞……。閣下の読みが的中しましたな」
「まあな」
よく知られた話だからね、とは言わない。無難にわー嬉しー(棒)と喜んでおく。
日清戦争以後、陸軍は機関銃で守られた陣地やコンクリート要塞を攻略する方法を模索してきた。それは私が主導したもので、軍も私が言うならと半信半疑で研究してきたわけだがここで正しかったことが証明されたわけである。
しかしそれで満足しない。富士演習場での標的を用いた射撃実験で装備する重砲によりこれらの防御施設は破壊可能という結論を得ている。攻撃力は十分だが問題もあった。機動力だ。
要塞を相手にするわけだから野戦砲のような機動力は要らない。大口径砲ゆえに重量もかなりあるため元々機動性は低い。ただ戦場となる満州はインフラが劣悪で、比較的整っている演習場の比ではないことは日清戦争で現地にいた者は身に沁みてわかっている。そこでインフラ劣悪の地でも一定程度の機動性を確保することが研究課題に。
「やはり機械力を以て解決する他ありません」
色々と研究したが、バラして持ち運ぶにも限界がある。結局こういう結論に落ち着いた。解決に向けては二つのアプローチが試みられる。過去に学ぶ軍部と未来知識から引っ張り出してくる私(倉屋)とに。
軍部が目をつけたのはアメリカ南北戦争。ピーターズバーグ要塞の戦いにおいて北軍は十三インチ列車臼砲を投入した。戦史を紐解き列車砲という概念にたどり着いたのである。軍部はすぐさま大口径、大重量のため機動力に難のある三八〇ミリ臼砲を車載化した三六年式三八〇ミリ列車臼砲を開発。試験結果も良好で即座に採用されている。
「列車砲か。欧米でも盛んに研究されているそうだな」
「はい。それと比べるとこれは子供騙しみたいなものですが」
まあ無蓋車に臼砲ポン付けしただけだから現地改造された兵器みたいなものだろう。ただ疑問点もある。
「軌間の問題はどうするんだ?」
日本では狭軌が用いられており、ロシアでは広軌(1520ミリ)を用いている。清国では広軌(国際標準軌、1435ミリ)が用いられていたが、ロシアが鉄道敷設権を得た満州ではロシア規格の鉄道が引かれていた。
「閣下の方針に従い広軌(国際標準軌)にします」
私の方針? と思ったが少し考えて納得する。というのは対露戦争計画があり、そこで補給をどうするのかについても定めていた。軍は当初、占領地の鉄道を日本式の狭軌に改軌して使うつもりだった。しかし私が国際標準軌にするよう改めたのだ。
「清国では専ら標準軌が使われている。将来、これらと接続する上で狭軌にすれば改軌に余計な金をとられることになる」
貧乏国家なのだから費用はなるべく圧縮すべきだと述べた。これには清国が我々に合わせればいいというような意見もあったが、かの国の鉄道には列強も深く関与している。彼らを前にして同じこと言えるのか、と言ったら黙った。
反論のなかには資材面を口にする者もいた。方面隊に鉄道隊があり、戦時には彼らが輸送の要となる鉄路を運用する。日本国内で主流の狭軌を想定して資材が準備されていた。そのことを受けての指摘である。
「国内には阪神電鉄のように広軌を採用する路線もある。その建設にも携わる予定だ」
広軌へ対応する準備はできていた。問題は機関車などの資材面だが、これは輸入で対応する。日本でも倉屋をはじめとした企業が鉄道資材の製造をしているものの、やはり主流である狭軌(あるいはそれ以下の規格)に対応したものがほとんどだ。なので多くは輸入に頼るしかない。
ともあれ鉄道隊の存在によって戦地での素早い鉄道敷設が可能と判断され、列車砲というアイデアが実現した。
では他方、私のアイデアとは何か。それはトラックである。ベンツから購入したトラックを基礎に倉屋で様々な派生型を開発していた。そのひとつが試製砲牽引車。大出力の大型エンジンに無限軌道を備えた車両で、見た目は武装のない戦車であった。富士演習場における試験では二〇三ミリ砲を牽引して見せる。
「この巨砲を分解することなく運ぶとは……空気タイヤとはいえ凄まじい馬力ですな」
二〇三ミリ砲の重量は三トンと少し。それを易々と運んでいる。見学していた将兵は驚きのあまり間抜けな顔をしていた。
「苦労していたが、高松くんの発明で問題を解決することができた」
高松くんとは高松梅治のことだ。二十歳を少し過ぎた慶應義塾の学生だが、無限軌道を閃いて倉屋に突撃してきた。飛行機の開発をやった(いい意味で)変な企業であり、倉屋ならこのアイデアに金を出してくれると考えたとのこと。大当たりである。
無限軌道が発案されたことで、特に不整地面での牽引力が不足するという欠点を解消。砲牽引車が実用化された。見た目はほぼ戦車だが、武装や装甲を取りつけると絶対に重量過多になるのでその発想はまだ心の中にしまっておく。
倉屋ではこの他にもベンツから買い取ったトラックをより洗練させ、それを基礎として様々なバリエーションを生み出した。六輪自動貨車、半装軌車、四輪小型自動貨車などなど。これらはエンジンや主用部材といった核心部品は欧州から輸入しているものの、その他の部材は国産を使用していた。代表は釜石や八幡で作られた鉄製品である。これらを神奈川にある倉屋の工場に集めて組み立てていた。
特に面白いのが四輪小型自動貨車――通称マメ車だ。大きなスノコに大きなゴムタイヤとハンドル、運転座席をくっつけたような代物となっている。モデルは米軍のM274ミュールだ。四輪駆動かつ軽量のため装輪車ながら不整地面の踏破能力に優れている。武器弾薬の運搬など、前線への物資補給に使うことを想定していた。
どれもが富士演習場での試験で高評価を得て制式化。こちらも三六年式と呼ばれた。この手の機械は騎兵科の反対に遭うのが常。史実の日本では抗議の割腹自殺なんて事件も起きている。試験を見学に来た騎兵監の渋谷在明はやはり渋い顔だったが、第一騎兵旅団長の秋山好古は歓迎していた。
「山縣閣下。これらは是非とも我が旅団に!」
フランス留学時に機械化の可能性についてレクチャーしたが、その教えは彼が教育機関(士官学校や騎兵学校)で教え子たちにも伝えたらしい。そのため中堅以下の騎兵科将校(秋山チルドレン)は機械化に反対するどころか、機械と連携すれば騎兵の威力を何倍にも高められると主張していた。
その認識がよく現れているのが秋山本人が書き上げた『将来騎兵戦法』であり、表紙には「軍機」という赤印がデカデカと押されている。論文には将来的な騎兵戦術とそれに必要とする兵器が記載されており、騎兵に随伴可能な機動力に優れた銃火器との記載があった。その一案として自動貨車に火器を搭載するというものがある。
「日清戦役にて牽引式機関銃は大いに活躍しました。砲架にゴムタイヤを採用して機動力は向上していますが、さらに進んでこれらを機械化したいと考えております」
驚くべきことに秋山は明治の時代にM16対空自走砲や19式装輪155mm自走りゅう弾砲のようなものを構想していた。戦車があれば機甲部隊といって差し支えない。
これは日本だからこその現象だろう。騎兵は太古の時代から決戦兵器で軍の花形だったが、日本ではせいぜい武田の騎馬隊があった程度。幕藩体制下でも大規模な騎兵部隊など存在せず、従って建軍においては騎兵の育成もゼロからスタートした。そしてそれを担ったのが秋山好古その人であり、騎兵科将校はそのほとんどが彼の教え子。機械力は敵ではなく友であるという認識がすっかり浸透していた。
「面白い! 優先的に割り振ろう」
その野心的な計画にロマンを感じたのでバックアップを約束する。多少はテコ入れしたものの日本の工業力は貧弱だ。しかし車両の生産は順調である。理由はサプライチェーンの構築にあった。
サンライズ社が欧州の工場で生産した部品を船で輸送。日本で最終組み立てを行なっている。輸出される段階では民生品であって兵器ではない。つまり戦時になっても輸送路が生きている限りは輸送と生産を継続できるのだ。トヨタ戦争の事例を見て思いついた手である。日本では構造材ならともかく、エンジンなんかの核心をなすパーツは作れない。そんな現実から編み出された手法だった。
これだけでは飽き足らず、秋山のおねだりは続く。
「そこでご相談なのですが……今度、改良型の野砲が届くとか」
「耳がいいな」
フランスのM1897野砲が誕生し、駐退復座機を採用した野砲が世界の主流になりつつある。現在の主力火砲である三一式野砲は簡単な駐退復座機しか持っておらず、その効果もまた限定的だ。これに対応するため三一式野砲を必要分調達し終えた陸軍は、本格的な駐退復座機を備えた改良型をクルップ社に注文した。
ドイツでも原型となった七・七センチFK96は本格的な駐退復座機を備えた七・七センチFK96nAに更新されている。それと同じプロセスをたどっただけだ。製造は迅速に行われ完成品の出荷も始まっている。既にこれを三一式野砲改と呼ぶことも決まっていた。それを車載化するために寄越せというのである。
「個人的には応援してやりたいが……どうだろう?」
駐退復座機を備えた砲のメリットは誰もが承知している。とはいえそんな大量に輸入されるものではない。争奪戦になることは必至と考えられていたが――意外にもそんなことはなかった。
「利点は承知していますが、扱いが異なるものが交じるのは遠慮したいですね」
現場からはそんな声が上がってきて、改良型と旧式とが交じることを嫌う。結果として騎兵の旧式砲が砲兵に引き取られ、補充として改良型が入ってくるというようなことに。その一部が現地改造として車載化された。
この手の自走砲の常として発射時の衝撃を車輪のみでは相殺しきれない。半装軌車はキャタピラの接地圧で何とかなったが、装輪車はそうもいかない。何らかの衝撃吸収機構が必要となったので駐鋤が設けられている。
こんな部隊が明治に出来上がってしまうのだからアイデアというのは恐ろしい。まあ航空機を保有しておいてどの口が言うのかと言われればそれまでだが。
その航空機であるが、陸軍と海軍とでそれぞれ発展を見ていた。陸軍では重量の制約から従来機の攻撃力不足が指摘される。エンジン出力は信頼性との兼ね合いもあって簡単には上がらないので、シンプルに数を増やすことで対応した。
この変更が思わぬ副産物を生んだ。それが航続距離の延長である。これまではせいぜい前線と飛行場の往復ができる程度だったが、双発化によって敵地深くにまで侵入することが可能に。兵站への攻撃も不可能ではなくなった。
一方の海軍でも艦艇の整備がひと段落したことでようやく航空機に目を向けた。時に陸軍で航続距離の長い機体が開発されたことを聞き、それを採用することに。海軍はまだ本格的に戦闘へ投入することは考えておらず、偵察や哨戒任務に使うことを想定していた。航続距離が長いというのはとても魅力的だったが問題もあり、
「軍港にいちいち滑走路を整備するのは大変です」
山本権兵衛のこのひと言に集約される。艦艇の整備とともに、海軍が飛行機の採用を見送っていた理由であった。しかしその解決策も考えてある。
というわけで海軍には水上機を導入させた。既存の機体にフロートを取り付けたのだがエンジン出力が足らず飛び立てなくて挫折。仕方がないので双発機を飛行艇にした。これなら凪いだ水面さえあれば離着水ができる。整備施設も港の端にちょいと建てるだけで済んだ。
このように機械化が急ピッチで進む日本軍。肝心の人材育成もまた急いで進められた。機械兵器は開発段階において、とにかく操作性が素直であることを要求されている。癖があると新人では扱いにくいからだ。誰も彼も完全な素人だったが、素直な操作性により基本的な動きは半年ほどの訓練でマスターした。
とはいえ従来の兵科と比べたら訓練時間は長い。特に航空については職業軍人が充てられることになり、学生を除けば全員が下士官以上で構成された。
「錬成にはかなりの時間がかかりますね」
教育総監の野津道貫からはそんな愚痴に似せた苦情が寄せられる。史実でもトラックを触った人間は希少で、ましてや航空機なんて見たことがあるくらいといった有様だった。おかげでパイロットの補充には苦労し、遂には特攻なんて手段に出る。
「軍でも効率的な錬成方法を検討していくが、民間でも素養を持った人間を育てる環境を作るよう促すべきだ」
私は裾野を広げる活動を行う。ターゲットにしたのは学校だ。帝国大学や大学相当の専門学校に機材を提供。サークルを作らせて車や飛行機に親しんでもらう。
ターゲットは日清戦争後に誕生していた在郷軍人会。自然発生的に生まれていたものを組み込んだ。軍務省に本部、道府県に支部、市区町村に分会を置いた。支部と分会の指導は管轄する師団司令部や連隊区司令部の担当である。
予備役には年一回の点呼があって指定された場所へと出頭する。その際のレクリエーションとして現代でいうところのゴーカートのようなものを行う。車両は倉屋の寄贈という形で軍が用意し、コースは兵営内に臨時で設営する。レースをして楽しみながら基本的な操作を学ぶのだ。
在郷軍人会は予備役軍人の団体であるが、入営者への事前教育も担う組織だ。入営前の講習で軍の資材(カートや緩衝材となるタイヤなど)を使い車の操作法を教授する。合宿免許みたいなもので、兵士たちは入営した時点で多少は車についての知識を有することになるのだ。基礎を飛ばせるのは大きい。
そして時代は変わっても人間の感性というのはそう変わらないらしい。車や飛行機に触れる機会があると熱中する人が現れる。そのような有志が集まって「◯◯自動車(飛行)倶楽部」なんてものもちらほらと生まれた。
金の面でもこの動きをアシストする。日本軍は貧乏政府が養う軍隊なので安月給であった。しかし何らかの技能を持っていれば手当がつく。車の運転ができたり、飛行機の操縦ができたりしても手当がついた。二つは特殊技能として手当の額を高めに設定。在郷軍人会の講習でも盛んに宣伝する。結果、講習会は連日大盛況で、飛行機は難しいが車ならどうにかなると励んで運転技能を持つ入営者が爆増。また機械に触れた経験はパイロットの育成にも一役買うことになった。
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