北京滞在録
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公使館区域では大歓迎を受けた。歓喜に沸く人々を見て間に合ったことにひとまず胸を撫で下ろす。
知らせを聞いた各国の公使たちから使いがやって来て、連合軍の首脳は各々の国の公使館へ。日本軍の司令官である山口中将も日本公使館に向かったが、私もそれに同行した。
「よく来てくれました」
西公使が公使館の前まで来て出迎えてくれた。我々は無事を祝い、公使からは救援に対して感謝があった。
「籠城戦はどのような状況でしたか?」
苦労話を聞こうと思ったのだが外交官、軍人ともに顔を見合わせて苦笑い。不思議に思っていると代表して西公使が答えてくれた。
「それが……どうも清国の姿勢は不徹底で。意外に九死に一生を得たという感覚はないのです」
籠城していた人々は日本人や欧米人は無論、キリスト教を信仰する中国人なども含む雑多な構成だった。しかし彼らは危機の前に人種や国の垣根を越えて団結したそうだ。
急なことで装備は貧弱だったが、ここで活躍したのがギリギリで送り込まれた日本の海軍陸戦隊。装備が整っている上にまとまった数がいるため、特に危ないところに投入されて敵の攻撃をよく食い止めた。
だが、それ以上に大きかったのは清国の不徹底さであったという。西公使曰く、真剣に攻撃してくる者もいたが多くは銃撃のみ。さらにはしばしば休戦となり、その間に防御設備の補修や食糧弾薬の調達ができた。もし本気で攻撃されていたら無事では済まなかっただろう、と。
意外な答えに微妙な空気が漂う。山口中将としては苦戦を潜り抜けた武勇伝を聞き、次に救援軍の武勇伝を話そうという魂胆だったのだろうが、あてが外れた格好だ。どう話を広げようかと互いに悩んだらしく沈黙が場を支配した。
「閣下」
その空気を切り裂くように声が上がる。
「おお柴くんか。随分と活躍したそうだな」
声の主は駐在武官の柴五郎中佐。北京籠城において列国の最先任士官であったことから軍事的な指揮を担っていたという。山口中将はその奮闘を讃える。微妙な空気を払拭するために大袈裟に。
ただ、柴中佐はその流れには乗らず、紫禁城への突入を進言した。
「列国は戦利品の獲得に動きます。それに乗り遅れるわけにはいきません」
と言いつつ、目ぼしいものがありそうな場所を列挙する。標的は総理衙門と戸部。主に外交と財務を司る部署だ。柴中佐は情報将校として清国内に諜報網を築き上げ、そういった情報を収集していた。
「よしわかった」
この進言を容れた山口司令官は「残敵捜索」を名目にして紫禁城に部隊を突入させた。そこで馬蹄銀およそ三百万両(日本円換算でおよそ四五〇〇万円)をはじめ城内にあった財宝の類いを戦利品にする。
列国も紫禁城や王侯貴族の邸宅を襲い戦利品を収奪した。主人である王侯貴族は西太后や皇帝をはじめ北京陥落前に逃亡したという。それでも家人など抵抗する者がいたが、連合軍は彼らを義和団だと断定して処刑することで黙らせた。紫禁城を襲撃した身で言うのも変だが、これには少しく思うところがある。
なお、略奪の一番槍となった日本軍は大人しくしていた。本国から厳に慎むようにと命令があったからだ。報告を聞いた父はかなり怒ったらしい。すぐさま略奪を禁じる命令を出させた。同時に可能な限り清国人を保護せよとも。事変後の対日感情を考慮して紳士的に振る舞うよう通達されている。
そんなわけで略奪を止めた日本軍は日中、部隊ごとに交代しながら警邏活動を行っている。目的は治安維持と残敵の掃討。そして――
「日本軍だ!」
「あっちへ! 急いで!」
数人の清国人がこちらへ向かって駆けてくる。兵士たちは義和団かと思い銃剣を構えるも隊長が武器を下げさせた。
「待て!」
彼らを追うように白人の集団が走ってくる。小銃を持った兵士たちだ。発砲しようとしたのか銃を構えたが、私たちが掲げている日章旗を見て発砲には至らない。
「参謀殿。あれは……」
「ロシア軍だ」
一応、私は通訳的な存在として同行していた。国際色豊かな軍隊なので言語には苦労している。ロシア語なんてほぼわからないが、幸いにもフランス語が通じた(こっちもあまり得意ではないのだが)。
「その清国人たちを引き渡して頂きたい。賊の疑いがある」
「それは恐ろしい。だが、生憎と先に捕まえたのはこちらだ。当方が責任を持って取り調べを行おう」
「いやいや。連合軍で一番の活躍をしたあなた方に面倒はかけさせたくない」
「いやいやいや――」
とまあそういうやり取りをした末にロシア軍は諦めて帰って行った。ロシア語で何を言ってるのかはわからないが、悪態を吐いたのはわかってるからなあのロシア人。そもそもこっちは大尉であちらは少尉。口の利き方がなっとらん! ロシア人は礼儀を知らんのか。
憤慨していたが、これこそ我々の新たな任務のひとつ。北京を練り歩いて清国人を保護するというものだ。あちこちで略奪に破壊活動、強姦、放火、殺人と義和団の掃討を名目に連合軍はやりたい放題。そのすべてを防ぐことはできないし、そもそも東洋人ということで日本は下に見られているところがある。それでもこのように隊列へ駆け込んできた人を助けることくらいはできる。
最初は日本軍も他国軍と同じように見られていたが、根気強く保護していったおかげで少しずつ頼られるようになった。やがて街中に広がって駆け込み寺的な存在に。さすがの列国軍も我々の目の前で狼藉を働くつもりはないらしく、日本軍の兵営周辺は平穏だった。住民もなかなかに強かで、安全確保のためにその周りで暮らし始める。人が人を呼ぶ状態となり、あっという間に避難所が出来上がった。
避難所は勝手にできたもので、そこへ人を呼ぶことはしていない。だが、見かねた人には勧誘をかけるようにしていた。代表者らしいお爺さんにそこへ来るかと訊ねたのだが、
「いや、大丈夫だ」
と断られる。乗ってくる人もいるのだが、今回は違ったようだ。
「大変だったな、爺さん」
代わりにというわけではないが、お爺さんに労いの言葉をかける。
「まったくだ。だがもう慣れた」
さすがは古老というべきか、アロー戦争のときから生きているらしい。略奪の類いだけではなく、普段から差別なり侮蔑なりを受けている。ここ五十年ほど繰り返されたことだからもう慣れた、と。何とも悲しい理由だった。
「元気で。長生きしてくれよ。それから困ったらいつでも日本軍の兵営に来て頼ってほしい」
名前を教えて私にすぐ用件が伝わるよう取り計らう。お爺さんはうんうんと頷いていた。その日は彼らを棲家まで送って見回りを終える。
それからその爺さん――陳老師とは北京での滞在中、奇妙な縁ができた。数日おきに訪ねてきては話すように。なぜ陳老師と呼ばれているかといえば、かつては清朝に仕えていて今は街で塾を開いているからだとか。教師の陳さんだから陳老師と周りから呼ばれるようになったらしい。顔も広く色々な人から頼りにされている。
陳老師からよくお願いされるのは見回り。兵営周辺に移り住むことのできる者はいいが、幸か不幸か家財が無事な者にとっては半ば無法地帯と化している街で家を空けるという選択肢はない。だが列国軍からの狼藉も免れたいとなれば、自身が住む場所に日本軍に来てもらおうとするのは自然なことだろう。我々も仕事なのでこれに応える。
次第に陳老師の存在は軍全体に認知され、現地協力者みたいな立ち位置に。道案内も兼ねて見回りに同行することもあった。その監督役として私も外回りが増えている。
「最近この辺りをドイツ軍が彷徨いているんじゃ」
「それは大変だ」
ひと口に連合軍といっても態度は様々だ。素行が悪いのはロシア軍とドイツ軍。この二国で事案の過半数を占めている。次にイギリス軍とフランス軍で三割ほど。日本軍とアメリカ軍は非常に抑制的だった(ただしゼロではない)。
隊列を組んで街を行進する。治安維持でもあり集団行動という軍人としての基本中の基本を鍛え直す訓練でもあった。私は騎乗してこれに同行していたが、馬上から見ると整然とした行進による威圧感はかなりのものだ。
しかし、そんな私たちを多くの住人は笑顔で迎えてくれる。兵士たちもそれに応えていた。他国の軍だとこうはいかない。こうして見ると日頃の行いは大事だということに気づかされる。
「大尉」
「ああ。いるな」
横目で周りの様子を窺うと、遠目にドイツ兵の姿が見える。なるほど危なそうだ。我々がいなくなった後にでもやって来そうである。
「夜は夜で気をつける。しかし、夜に襲ってくるのは夜盗の類いじゃないか。我々を野蛮だ何だと言うが夜盗に言われる筋合いはないな」
「ははは……」
何も言い返せない。笑って流すしかなかった。
「大丈夫だろうか?」
「我々が見回りをしましたし、今日明日に来るってことはないんじゃないでしょうか?」
大丈夫じゃなかった。
夜に叩き起こされて何事かと思えば陳老師が見回りをした場所の住民を連れて兵営にやって来たのである。ドイツ兵に襲撃されたそうだ。夜陰に紛れてどうにか逃げて陳老師を訪ね、日本軍の兵営までやって来たというわけである。
「避難所に住むなら我々は特に関知しないが……」
勝手にやってるのだから勝手にしてくれと言ったのだが、陳老師は単に移り住むことを伝えに来たわけではないらしい。
「実は食糧が不足していてな。日本軍のものを融通してはもらえんか?」
「え? それは……」
食糧問題はこれは極めて深刻らしい。今までは陳老師をはじめとした篤志家が賄っていたそうだが、占領から時間が経って略奪を受けた件数も時間に比例して増加。家財を失って流れ着いた者も多く、これまでは工夫してきたが限界がきているという。
事情はわかったがさすがに官給品を流すわけにはいかない。そんなことをすれば憲兵のお世話になる。判断しかねたので素直に山口中将に相談した。
「そうは言ってもね」
元は日本側のお目こぼしによって避難所ができた。列国からの追及は、清国人が勝手にやっているだけと言い訳して切り抜けている。そこへ軍が支援したのでは追及を躱せなくなってしまう。それはそれで問題だった。
とはいえ政府からの命令を実行した結果でもあり、果たして捨て置いていいのだろうか。司令部の間でも議論になったが決着つかず、本国に判断を委ねようということになった。
二日後、思っていたよりも早くに政府からの指示があった。前に紫禁城から略奪してきた品物に米があったから、それを使って養うようにとのことである。ただし、直接渡すと非難されるので保管場所を教え、避難民がそれを着服しているがそれを知らない間抜けな日本軍、という演出をすることになった。それで食糧は当面なんとかなるだろうと。
「おお、ありがたい」
「ただ老師。この件はくれぐれも内密に」
「勿論だとも。信用できる人間だけにする」
略奪品をその国の民衆に配るという妙な扱いになったが、とにかく当面はそれで凌ぐことになった。米は玄米にして三十二万石ある。占領がどれくらいの期間になるかはわからないが、そうそう無くなる量ではない。当分、米を食うには困らないだろう。
もう少し情勢が安定すれば酒保も開かれて「私物」を知り合いに「譲る」ことも可能になる。原資は官費として精算されるだろうが、建前としては個人の厚意となるわけだ。そういう建前は大事だと父から教わっている。……まあ父の場合、多くは母のご機嫌とりなんだけれども。
これだけだと父は情けないことこの上ないが、現地民となるべく友好的な関係を築くべしというのは父が指揮した日清戦争における戦訓によるものだ。この知見がなければただの略奪者として憎まれていただろう。
避難所は清国人にとっては稀有な安全地帯であったが、日本軍にとっても憩いの場になっていた。非番の兵士たちが避難所の子どもたちと遊んでいるのである。言葉は通じないが子どものすること。何となく身振り手振りで理解できる。それでもわからなかったら言葉がわかる私たちに訊ねてくるが。
凄いのは子どもたちで、歴の長い子でもほんの数ヶ月でありながら片言程度の日本語を話せるようになっている。私も割と幼い頃から英語を話せていたがいつ覚えたのだろうか? 今度、手紙を出すときに両親に訊いてみよう。そんなとき、
「大尉! 公使館にお越しください」
急に招集を受けた。しかも集まるよう言われた先は公使館。普通なら司令部なので、外交にも関わる何かが起きたに違いない。すぐさま避難所を離れ公使館へ。
「少し厄介なことになった」
開口一番、山口中将がそう切り出した。政府の指示で街のみならず紫禁城も警邏の対象に含まれている。というのも貴重な文物が汚損しないようにするためだ。西洋人は金銀財宝に興味を示すが書物の類いにはあまり価値を見出さない。それゆえに『永楽大典』や『欽定古今図書集成』などの貴重書、王羲之の「遊目帖」といった作品が汚損したり流出したりしている。典籍をぬかるんだ道に敷き詰めたなんて話もあった。
街で信頼を得て以降、その風聞は紫禁城にも伝わる。西太后は皇帝を連れて逃げていったが、全員が全員逃げたというわけではなく城に留まった者も多い。列国も宮殿の部分はさすがに手は出さず政府機関のみの略奪に留めていたため、今でも城内で生活している人はいる。そのなかには貴重な物が持ち去られたり汚損されることを嘆く者もいた。
北京の街ではそうした略奪品を換金する市場が開かれている有様だ。これを聞きつけた商人が集まっており、なかには日本の古美術商もいる。軍人はともかく民間人は統制し切れないため、我々もこれを傍観するしかなかった。
そんな状態だが、少しでも被害を抑制しようと日本軍は定期的に宮中を見回り。関係ない箱なんかを運んで略奪に勤しんでいるように見せかけつつ、実際は城に残っていた清国人が残された貴重品を運び出す時間を稼いでいた。後宮をはじめとする宮廷人の生活空間に持ち込めば難を逃れることができる。問題は残り物とはいえもの凄く膨大な数になることだが、根気強くやっていくしかない。
同じ東洋人であることと、そんなお節介をしているので宮廷人からは列国のなかでは比較的好意的に思われていた。ある程度の関係ができたところで女官から告白を受ける。
混乱のさなか井戸に貴人が突き落とされた
と。井戸を調べてみると本当に遺体が発見された。身につけていたものなどから皇帝の妃である珍妃だと断定。聞くところによれば皇帝の寵愛を受けていたため西太后と仲が悪く、罪をでっち上げられて身分を落とされたり罰を与えられたりしていたそうだ。戊戌の政変で幽閉され、今回の事変では西太后に意見したことで逆鱗に触れ殺されたらしい。宮廷闘争というのは恐ろしいものだ。
死人には申し訳ないが厄介なものを見つけてしまったことになる。我々は対応を協議したが、公表してできる限りの弔いをすべきという意見で一致した。彼女の壮絶な人生が判官贔屓の我々の心を打ったのである。残っていた官吏の助言を受けつつ準備。列国の指揮官らも招待して清国式の儀礼で送った。
「愚かなものだ」
「まったく理性的じゃない」
招待された列国の指揮官は被葬者がなぜ死んだのかを知っている。ゆえに首謀者である西太后を口々に批判していた。
北京を占領して時間が経ち、宣戦布告に至った経緯が関係者への聴取で明らかになっている。すなわち西太后が「弱体化したこの国が恃めるのは人心のみ」と義和団に国の全てを託して宣戦布告に踏み切ったのだ。
そんな行き当たりばったりな宣戦布告には多くの人が反対。皇帝すら腹心に公使館保護の勅旨を託したが、西太后に露見して阻止されたらしい。さらに彼女は反対派を処刑してまで強行した。珍妃もそのひとりだったわけである。あるいは自身に反抗する皇帝への嫌がらせか。
ところで件の西太后であるが、義和団が呆気なく敗れて北京を都落ちすることになるとあっさりと方針転換した。あのときの判断は誤りであったとし、一転して義和団を反乱軍と認定。地方官に鎮圧を命じるとともに和平交渉を命じた。賊の鎮圧や交渉のため、日清戦争敗戦の責任をとらされていた李鴻章が直隷総督と北洋大臣の職に返り咲きを果たす。
こんな事情があり、公使たちは忙しそうに仕事をしていた。籠城戦から休む間もない激務ということもあって西公使は体調を崩してしまった。列強の利害調整が難航していたことも原因だ。職務継続は困難と判断され、代わりに駐露公使の小村寿太郎が転任して交渉にあたることに。小村公使はロシアからイギリス、アメリカを経由した太平洋周りで着任したため赴任してきたのは年が明けてのことだった。
軍も忙しくなる。九月にドイツからヴァルダーゼー元帥と一万を超える本国軍が到着。最先任であることから彼が連合軍の指揮を執ることになった(フランスとアメリカは拒否)。狼藉を働く兵士たちを見て指揮官に軍規を徹底するよう指示。さらには北京周辺地域での義和団の残党狩りに勤しんだ。
一方の私は留学が遅れることを懸念され、年末に任務を解かれた。そして改めてイギリス留学を命じられてロンドンへ向かった。
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