間話 ロルフと陛下
「グレイソン様」
退室するグレイソン陛下を追いかけ、俺は応接室を出た。グレイソン陛下はオリヴィア妃と共に立ち止まる。
「何かな、ロルフ殿下」
穏やかな笑みの、外向きの顔でグレイソン陛下は俺を見る。オリヴィア妃殿下も同じく、柔らかな笑みを浮かべている。そんな二人の様子に、ヒヤリとしたものが背中を流れた。
王宮内で、付き従うのは護衛と侍従だけ。そんな身内ばかりの中で、グレイソン陛下がこのような取り繕った態度を示したことはない。俺の事もロルフと呼び捨てにするはずだ。これまでなら。
「此度のこと、謝罪したく…」
「御託はいい」
切り捨てる様な鋭さで、グレイソン陛下は俺の謝罪を断ち切った。威圧のこもる声に、俺の足が固まる。オリヴィア妃は涼しげな顔で、扇子を広げた。
「余がナリス王国を想うほど、貴国に我が国は信頼されていなかったと言うことだ。虚しいものよ」
グレイソン陛下の瞳は、獰猛な獣を思わせた。怒りを孕んだ獣の牙が、こちらの喉を掻っ切らんと狙っている。
「シーナとジンクレットを利用して、あのコルツ家を排除する気であろう?其方やカナンの害にしかならぬからな、あの家は。お前の事だから、あの女狐がどう動くかぐらい、予想はつけているのだろう?」
ふんっと、鼻で嗤い、グレイソン陛下は俺を睨みつける。初めて向けられた侮蔑を含んだ視線が、俺を焦らせた。
「我が国を魔物から守り、民の腹を満たし、我が息子や多くの兵を救ったシーナを利用するか。ナリスの一粒種を救った恩人に、砂を掛けるつもりか。…余も耄碌したものだ。このような不義の輩に、我が国の恩人を託そうなどと本気で考えるなど」
恩人を託す…。俺に、マリタ国王が、恩人を託そうと思っていた。
その言葉で。陛下からどれほどの信頼を受けていたのか、俺は思い知らされた。そして、その信頼を、最悪の形で裏切ったのだ。
「見ていて分かったと思うが、ジンクレットはシーナに心底惚れている。それこそ一途に、依存するように溺れている。だがな、余はあの娘に、マリタ国王として報いると誓ったのだ。たとえそれが息子を苦しめる結果になろうと、あの娘の安全には代えられん。息子が相応しくなければ、力づくで排するつもりだった。そうでなければ、マリタ王国は成り立たぬ」
マリタ王国は元は騎馬民族が興した国。義に厚く、仲間意識が強い。
今は秘された聖女の偉業をマリタ王国の国民が知れば、国を救った大恩人に報いるために、マリタ王国は一丸となって聖女を守るだろう。
「余はな、シーナを守る最高の男と考えた時に、ロルフ殿下を一番に思い浮かべた。実の息子のジンクレットよりも、其方を。其方なら、あの娘を託しても、なんの心配もいらぬと思った。お前の優秀さも、懐へ抱えた者への情の深さも、敵と決めた者への容赦のなさも、築いた人脈も、シーナを任せてこれ程心強い男はいないと思っていた。お前が貴族の娘を娶りたいと望んでいたのは知っていたが、シーナの価値はそれ以上にあると。お前の立場を強固にする価値があると思ったから、ナリスに打診をしたのだが…」
ふっと自嘲するように、グレイソン陛下は笑った。
「ぐだぐだとくだらぬ言い訳をしたな。余は弱気になっていたのだ。情けない事に、魔物の被害で我が国は窮していた。このような状態で、ダイド王国から、あの娘を守り抜けるのかとな。そして愚かにも、盟友たるナリス王国ならば、聖女を守るための助力を願えると。そう信じてしまった」
グレイソン陛下は俺から視線を外し、淡々と告げた。
胸が痛い。嫌な汗が首から背中へ伝い落ち、後悔で目が回りそうだった。
「余が間違っていた。其方より、ジンクレットの方がまだマシよ。あやつはまだまだ甘ったれで、お前に比べて足りぬ事も多いが…。シーナを守る事だけは、なんの迷いもなく実行する。命すら躊躇わず懸けてくれるだろう。あの娘の安寧は、我が息子に託すのが良いと、思い直したよ」
焦る俺の口からは、何の言葉も出てこなかった。何を言ったところで、グレイソン陛下の信頼を取り戻すなどと、不可能に思えた。
「良いさ、ロルフ殿下。好きに我が国を利用するがいい」
ニヤリと口の端を上げ、グレイソン陛下は嗤う。
「だがなぁ。その結果、髪一筋ほどの傷でもあの娘に負わせてみろ?」
ニヤリと歪んだ口元と、燃える様な怒りを湛えた瞳に、肝が縮み上がった。
「その時は余が刺し違えてでも、ナリスを叩き潰す故、覚悟はしておけ」
グレイソン陛下は踵を返した。オリヴィア妃も笑んだまま、一言も発さずに陛下のエスコートに従う。俺には声を掛ける価値は無いと思われたのか。
遠ざかる背中を、俺は忸怩たる思いで見つめた。
初めてお会いしたのはいつだったか。まだ俺が、王宮に上がる前、鬱屈とした日々を過ごしていた頃。己一人で全てを守ろうと、足掻いていた時のことだった。何も出来ない子どもの俺に、兄と共に俺に手を差し伸べてくれた。俺たちを救い、気付かなくて済まなかったと謝り、グシャグシャと頭を撫でて、良くやったと褒めてくれた。
兄の悪友で。兄と一緒にいると、大きな子どものようで。
しかし兄もグレイソン陛下も、どんな時も飄々と笑って、国を継ぐ責任を、その重さを誰にも気取らせず、軽々と背負って見せていた。
その背中は大きくて力強くて、眩しくて憧れて、子どもの俺は必死で追いつこうと喰らいついていた。
兄や義姉が正しかったのだ。彼らはグレイソン陛下を、マリタ王国を、正しく評価していた。俺が間違っていたのだ。だが俺は、自分の考えに固執し、兄達の意見に耳を貸さなかった。
俺は、嫌というほど知っていたから。
苦しい時に差し出される甘い誘いに、救いなどないと。御伽噺は、現実には起こらない。女神に心から願っても、叶えられる事はない。救いを信じるだけ、助けを待つだけ馬鹿だと、知っていたから。何度も思い知らされたから。
今回もそうだと、思い込んでいた。
俺の力不足で、大事なものを奪われるのは二度と御免だった。
だが、俺の頑なな思い込みは、いつの間にか、呪いの様に俺に染み込んでいたのか。
先程、陛下と言葉を交わすまでは、なんとか挽回出来ないかと浅はかな事を考えていた。しかし、相手はグレイソン陛下だ。俺の考えも、企みも、全て見通されていた。
もしも、今回滞在であの毒虫どもが聖女に傷の一つでもつけたなら、陛下は本気でナリス王国に報復するだろう。
何としてでも聖女は守らなくてはならない。
でなければ、最悪、マリタ王国とナリス王国の戦争になる。
俺のしでかした事は、陛下が俺に寄せていてくれた信頼を裏切っただけでなく、陛下の、マリタ王国の大恩人を危険に晒す。ナリス王国がマリタ王国に敵対したと言われても、おかしくない事なのだ。
「必ず、守らなくては…」
己が引き入れた毒虫から己自身で守るなど、なんとも皮肉で愚かな事なのか。
俺のような愚か者を、聖女が受け入れてくれるかは分からないが、なんとか彼女と話をしなくてはならない。





