間話 ロルフ殿下視点【前編】
「ロルフ殿下。陛下がお呼びです」
南の領地に魔物の目撃情報があり、討伐のための準備をしていた俺は驚いた。陛下とて俺が出発前の準備に追われている事は知っているだろうに。だが、分かっていても呼び出すほどの用件なのだろうと、俺は手にしていた書類を部下に任せ、陛下の元へ急いだ。
ナリス王国の王である兄は、俺とは親子ほどの年が離れている。俺を揶揄う事を生き甲斐にしているような面倒な人だが、仕事の邪魔をする事は決してない。
「お、ロルフ。忙しいところ悪かったな」
指定された小さな応接室には、兄夫婦と、隣国マリタ王国の王太子妃夫妻がいた。最高級の茶葉の香りが漂うそこは、まるで茶会の様だが、珍しく難しい顔をする兄と、そしていつにない義姉の様子に俺は度肝を抜かれた。
「義姉上?どうなされた?!」
「ロルフ様。カナンが、カナンがっ!」
義姉がグシャグシャのハンカチを真っ赤な目に押し当てている。俺は焦った。型破りな兄を支える完璧な王妃である義姉がこんなに取り乱すとは。義姉の涙など初めて見た。カナンに何かあったのか?
何か危険が迫っているのか。近衛と騎士団をどう動かすかを頭の中で瞬時に組み立てる。まずはカナンの所在を確認し、安全を確保することが最優先。腹心の部下に指示を出すべく動きだすと。
「ロルフ殿下。カナンは無事ですよ。その物騒な殺気を抑えてください。王妃様、その様に取り乱されては、ロルフ殿下が勘違いをします…。陛下、ロルフ殿下を面白そうに観察しない!」
サイードが眉間の皺を揉み揉みしながら俺達を諌めた。兄がおどけたようにわざと目を丸くする。そんな兄の様子とサイードの言葉に、俺はほんの少し緊張を緩めた。サイードもまた、ウチの兄の悪友であるマリタ国王に翻弄される日々を送っているので、揶揄われる俺が他人事ではないのだろう。
「ごめんなさい、サイード殿下、ロルフ様。取り乱してしまったわ」
義姉が恥ずかしそうにハンカチで涙を拭く。ルーナ妃がすかさず新しいハンカチを義姉に手渡した。交渉の巧みさと言動の漢らしさで文官達や兵士達から密かに『お姐様』などと呼ばれているルーナ妃だが、実はとても細やかな気遣いの出来るイイ女なのだ。そういう所にベタ惚れしていると、以前酔ったサイードに惚気られたのを、何故か今思い出してしまった。
義姉はルーナ妃に目線で礼をし、こぼれ落ちる涙を拭った。
「ロルフ様、カナンの足がね、治るかもしれないのっ!」
抑えきれぬように弾んだ義姉の声と、話の内容に、俺は表情を取り繕う事が出来なかった。さぞや恐ろしい顔になっていただろう。
カナンの足が治るだと?また、イカサマ詐欺師の与太話か。
「ロルフ殿下、気持ちは分かるが話を聞いてくれ。カナン殿下を我が国へ正式にご招待したい。…リュートの右腕が、治ったそうだ」
サイードの言葉に、鼓動が速くなった。マリタ王国の第3王子、リュートの悲劇は有名な話だ。類稀なる剣の腕を持ちながら、部下を庇い魔物に腕を奪われたリュート。今では殆ど、表舞台に出る事も無くなっている。
「リュートの腕が、本当に?」
信じられない。身体の欠損は治せないのが常識だ。高位の回復魔術師でも、成功させた事例は聞かない。
「陛下から機密扱いの伝令魔法で報告を受けた。暫く訓練は必要だが、既に剣を振れるまで回復していると」
ヒュッと、喉が鳴った。マリタ国王からサイードへの機密扱いの伝令魔法。これまでのどんな与太話よりも信憑性がある。
「どうやって治った?」
「…我が国でも機密扱いです。絶対に口外しないとお約束を」
「分かっている!」
気が急いて、怒鳴りつけてしまったが、サイードは気にする事もなく、俺の前に見慣れない黒い塊を置いた。微かに、薬草の様な芳香が漂う。
「これは、最近我が国で実用化した『魔物避けの香』だ」
「魔物避けの香?」
なんだその、胡散臭い代物は。
「これを焚けば、B級以下の魔物はその場に近寄る事が出来なくなる」
「はっ?!」
余りの妄言に、俺は気の抜けた声を上げてしまった。そんな夢みたいな物が実在するわけがない。
「陛下からの知らせによると、先日多数の魔物の襲撃を受けたカイラット街で、魔物避けの香は大いにその効果を発揮している。現在、我が国では各街に配置した魔物の香のお陰で、魔物の襲撃が激減している。また、A級以上の魔物に対しては、香の成分で混乱を招き、魔物の動きを鈍くする効果が見られ、討伐時にも非常に有効だという報告もある」
俺の拳よりも小さな黒い香が、そんな効果を齎すなどと、俄には信じ難い。俺の戸惑いをよそに、サイードは次々と香をテーブルに置き始めた。
「これが通常時用、集中力が高まる成分が含まれている。こちらが睡眠時用、眠りにいい成分が入っている。こちらは食事時用、香りが弱めになっている」
「そんなにあるのか?いや、そんなにいるのか?」
魔物を避けるだけでも相当な効果なのに、何だ、その至れり尽くせりな効能は?
「作成者の並々ならぬ熱意を感じるな」
兄が半信半疑で香りを確かめる。貴族向けの贅沢品だから、香りの種類が豊富なのだろうか?
「…魔物討伐において、少しでも良い成果を、良い眠りを、楽しい食事をと願って作られた様ですよ。作成者は、ダイド王国の元聖女です」
サイードの淡々とした言葉に、俺は嫌悪感が湧き上がるのを抑えられなかった。ダイド王国の元聖女。ダイド王国の第3王子の婚約者という立場を利用し、兵士達を虐げ、贅の限りを尽くし、高位貴族の令嬢の殺害を企てた。その罪を第3王子に暴かれ、悪行に加担していた侍女と共に、グラス森討伐隊から追放の刑に処された女だ。
「偽聖女だと言われている女が作った香だと?一気に効能が怪しくなったな」
俺はサイードの言葉を鼻で嗤った。兄も難しい顔をしている。独身の身軽さから、色々な女性と浮名を流してきた俺だが、見目が良くても、王族や貴族に纏わり付き、甘い汁を吸おうとするだけの女は嫌いだ。どんな身分でも、矜持を持って己の足で立つ女が好ましい。
俺たちの様子を見て、サイードが淡々と続ける。
「ガリガリだったそうだ」
「ん?」
「ジンクレットが元聖女にグラス森近くで出会った時、実年齢は15歳の筈なのに、10歳前後にしか見えず、侍女共々酷く痩せ細って、衣服も街の孤児より粗末な衣だったそうだ」
「……?」
「マリタ王国の医師サンド老の診察の結果によると、元聖女は栄養失調と過酷な労働を強いられたせいか、成長が止まっていたらしい。碌な栄養も休息も与えらず、聖魔力による回復を多用する事で生命を繋いでいて、身体が成長しなかったと」
「まて、15歳?身体が成長していなかった?いったい、いくつからグラス森討伐隊にいたんだ?」
兄が驚き、声を上げる。現在15歳ということはようやく成人。ダイド王国の第3王子の婚約者が聖女であるという事は、数年前に各国へ正式に通知があったと記憶している。類稀なる聖魔力を見込まれ、平民から選ばれたと。王族の妃が平民から選ばれるなど、滅多にない事だ。各国でも話題になりそうだが、騒がれていた覚えがない。随分と早急に、そして簡素に発表されたのか。年齢は…、公表されていただろうか。
「10歳だ」
10歳?俺は耳を疑った。甥のカナンは8歳だが、それと殆ど変わらぬ子どもを討伐隊に?魔物の討伐だぞ?大の男でも危険な現場に、子どもを?
「王国共通法で未成年の重役は禁止されているだろう?!」
「だから第3王子の婚約者になったのだろうな。王族の特別規定を適用させる為に。でなければ平民の子どもを婚約者に据えるなどおかしいだろう。しかも親のいない孤児なので、どう扱おうと文句を言う者もいない。体裁だけ整え、利用するだけし尽くして、第3王子が本命の令嬢と婚姻する為、罪を着せて処分した」
ダイド王国。王族、貴族の権威が強く保守的な国だ。絶対的な身分制度を敷き、民への締め付けも厳しい。仕事で彼の国を訪れた時に感じた、閉塞感と緊張感。そんな国で、後ろ盾も身分もない子どもがどんな扱いを受けるのか、容易に想像がついた。
「リュートの腕を治したのはその元聖女だ。過酷な討伐の現場で、多くの兵を治癒していくうちに、再生魔法を生み出した。初めて再生魔法を使ったのは、元聖女に付き従う侍女に対してだったそうだ。討伐の最中、侍女が元聖女の目の前で脚を失ったのが切っ掛けだったそうだ」
親しい者が目の前で魔物に襲われ傷つき、死んでいく。訓練を受けた屈強な兵でさえ心を病む事もある。そんな現場で少しでも兵士を生かすために再生魔法が作られたということか。
よくできた話だ。これが本当ならば、元聖女についての良からぬ噂とは、随分とかけ離れている。
「私も俄には信じられなかったが、元聖女が魔物避けの香を作り、リュートを治したことは事実だ。マリタ国王がそう断言しているからな」
サイードは信じ切れぬナリス王国側に、ニヤリと笑んでみせた。マリタ国王は情は深いが安易な判断をする人ではない。彼を信じないと言うわけではないのだが、荒唐無稽な話が続き、すぐに判断できることではなかった。
「それで、マリタ王国はナリスに何を望む?カナンの足を治す見返りに。交渉中の、食糧支援か?」
兄がサイードに慎重な視線を向ける。魔物の襲撃が頻発し、マリタ王国では食糧不足が問題となっていた。今回のサイードの訪問は、表向きは我が国の建国祝いへの参加だったが、真の目的は我が国からの食糧支援だ。友好国であるマリタ王国を支援したい気持ちはあるが、我が国もマリタ王国より少ないとはいえ、魔物の襲撃が増えつつある。そう安易に継続的な食糧支援を決めることが出来ず、我が国の担当大臣とルーナ妃の間で、熾烈な交渉が続いていた。
「いや、食糧については目処がついた。支援は求めない。こちらの要望は撤回する」
「なんだと?」
「ザロスの調理法が見つかった。食糧難は解消しつつある。今、我が国ではザロスを使った料理が流行しているらしい」
「ザロス?あの、白い鳥の餌のことか?」
兄が驚いている。無理もない。ザロスとはそこらの道端に生える繁殖力の強い雑草の事だ。白い実が落ちるとすぐに根付き、成長する。畑に実が落ちるとザロスが畑の栄養を持って行ってしまうので、農民からは『悪の実』などと呼ばれている。焼くと固く、煮るとドロリと溶け、形が無くなり不味い。平民とて、余程の食糧不足の時しか口にしないものだ。
そのザロスがマリタ王国で流行している?
「元聖女が、ザロスの調理法とそれに合う料理を開発したらしくてな。だから、食糧支援は不要だ。大臣に時間を取らせて申し訳なかった」
…また、元聖女だ。
御涙頂戴の哀れな生い立ちに、魔物避けの香、再生魔法、ザロスの食用化。まるで御伽噺のようだな。
俺は内心の不信感が表に出ないように注意した。マリタ王国は我が国最大の友好国だが、最近では魔物の襲撃により、内部は荒れ、財政的にも逼迫していると聞く。王家を支える貴族家からも、長引く危機に不満や不安が頻発し、日に日に状況は悪化しているとの情報を掴んでいた。
そんな追い詰められた国が、突然、元聖女などという怪しげな者を内部に引き入れ、夢物語のようなことを言い出した。藁にでも縋る気持ちで、元聖女とやらを信仰しているのか。
そんな危うい国と、長年の友好国だからといって、これまで通り信用することができるのか。答えは、否だろう。
俺は、胸が詰まるような思いがした。頭に浮かぶのは、長年、交流のあったマリタ王国の王子たちのことだった。
もしもの時は、彼らを切り捨てる覚悟もしなくてはならない。年はいくらか離れているが、お互いの国を頻繁に行き来するほど仲が良く、弟のように思ってきた奴らだ。割り切れるかと言われたら、難しい。しかし、情にかられ、我が国がマリタ王国と共倒れになる事は避けなくてはならない。
苦渋の思いで決意を固めていると、その弟分の一人であるサイードが、訴えかけた。
「ナリス王国に望むのは、我が国とともに元聖女の後ろ盾となる事だ。再生魔法や魔物避けの香は、元聖女がダイド王国にいた頃に開発されたため、彼女の所在が我が国に在ると露見すれば、狙われる可能性が高い。我が国とナリス王国でこれらの開発を行った事にすれば、多少は彼の国の目眩しになるだろうというのが、我が国の考えだ」
こちらには利しかないようだが、旨味が大きすぎる。即決は出来ず、兄は押し黙った。
サイードに、返事はカナンの治療が終わった後でも構わないと言われ、我が国は一旦、返事を保留した。余りに急な話なのもあり、考える時間が欲しかった。
「これから、討伐に行くそうだな、ロルフ殿下」
会談が終わって、サイード達が退出する間際に、そっと魔物避けの香を差し出された。
「討伐で、使用してみてくれ。ザイン商会を通じて、ナリス王国でも購入できるよう、こちらは準備済みだ」
サイードの目には労りの色があった。だが、俺はそれから頑なに目を逸らす。
「俺には必要ない」
「…そうか」
サイードが差し出した手を静かに下ろした。その仕草に、戸惑いが感じられた。
情だけでは国は成り立たない。俺はぐっと目を閉じた。





