50 記憶の揺り返し
ゆらり。ゆらり。
身体が熱い。ふわふわと雲にでも乗っているような浮遊感。
熱い。熱い。熱い。熱い。
ひんやりとしたものが、額に触れる。気持ちいい。
薄く目を開けると、霞んだ視界の中、キリの泣き顔。ぎゅっと唇を噛み締めている。キリ、そんなに噛み締めたら切れちゃうよ。
「シーナ様。少しでもいいですので、お召し上がりください。あいにくと、こんなものしかありませんが」
野菜の切れ端の入った、水みたいな薄いスープ。冷めているというよりも冷え切っている。冷たい。熱い身体に気持ちいい。
「…キリ、わたし、熱があるんだね…」
「今は魔物の襲撃も落ち着いています。どうか、回復魔法はお止めください。昨日から、一睡もしていらっしゃいません。こんな時ぐらいは、お休みにならないと」
「…うん、そうだね、少し、休もうかな」
小さなお椀のスープを飲み干し、カビ臭い毛布に身体を潜り込ませる。熱い、熱い。身体が燃えているみたい。でも寝たらだめ。寝ている間に、間に合わなくなる。救える命が救えなくなる。
「シーナ様。氷をもらってきます、お待ちを…」
小さな鍋を持って外へ出ていくキリ。その痩せ細った背中に、心配が募る。ああ、さっきの椀は、キリの分じゃないのかな。また、わたしに譲ったんじゃないだろうか。キリもあんまり食べてないのに。また痩せちゃうよ。
でも身体を動かすことは出来なかった。鉛のように身体が重い。ガンガンと殴られているような頭の痛みと、熱のせいで強張った背中が痛い。
小さな頃、まだお父さんとお母さんが生きていた時の事を思い出した。熱を出したわたしに、お父さんは果物をくれた。お母さんは温かいスープをくれた。お兄ちゃんが、水で濡らした布で、頭を冷やしてくれた。懐かしいな。決して裕福ではなかったけど、愛されてた。大事にされてた。
でも魔物が村を襲って、家族は皆いなくなった。魔物が憎いだろう、敵が討ちたいだろうと言われて、討伐隊に入ることを了承した。魔物がいなければ家族は今でも元気に生きていてくれた。幸せな毎日を送れていた。もうあんな思いは誰にもして欲しくないと思って、ここに来たはずだ。悔いはない。だけど。
ここはあの時に見た地獄よりも酷い。昨日いた人がいなくなる。爆発音、肉の焼ける臭い、悲鳴と怒声と。
あの日の、魔物に奪われた痛みを、毎日繰り返しているみたい。
「いつまでサボっているんだ、この役立たずがっ!」
吹けば飛ぶようなボロいテントに、怒声が響いた。同時に、お腹に衝撃があって、口の中に血の味が広がり、身体がテントの支柱にぶつかった。
「グリード、副隊長」
わたしをその大きな足で蹴り上げたのは、グラス森討伐隊のグリード副隊長だった。魔物の返り血まみれの副隊長は、手に持った剣の切っ先をわたしの右足に躊躇なく潜り込ませた。
「ーッ!!」
灼熱のような痛みが右足を貫いたが、わたしは声を抑えた。重傷にはならぬ様、加減はされていた。足に刺さった剣先をグリグリと微妙に動かしながら、グリード副隊長は吐き捨てるように言った。
「前線に負傷者が増えているんだ、さっさと起きて回復させろ」
「…はい」
右足から剣が抜かれると同時に、わたしは小さく詠唱して自分の身体に回復魔法をかけた。どれほど疲れ切っていても、魔力が豊富なお陰で回復魔法の発動には支障がない。身体から熱と痛みが去り、わたしはゆっくりと立ち上がった。
グリード副隊長は用は済んだとばかりに、こちらを振り返ることなくテントを出て行った。良かった、今日は殴られなかった。機嫌がいいようだ。
テントを出て、怪我人が集められている場所へ向かう途中、レクター殿下を見かけた。また幼馴染という侯爵令嬢と連れ立っている。今日は侯爵令嬢の回復魔法はないのだろうか。
「ああ、君か」
レクター殿下が侯爵令嬢を気遣いながらわたしに声を掛ける。わたしの婚約者であるレクター殿下は、皺一つない絹の装束を纏っていて、神々しいばかりの美しさだ。こんな素敵な人がわたしの婚約者だなんて、未だに夢でも見ているみたいだ。
「今日はシンディアの体調が優れないんだ。代わりに頼むよ」
侯爵令嬢はレクター殿下の腕に取り縋っていて、本当に具合が悪そうだ。それならば、兵達に文句は言われるが仕方がない。今日はわたしの回復で我慢してもらわなければ。
兵達が寝かされている場所へ行き、回復魔法と再生魔法を繰り返し施す。充満する鉄錆の臭いにも、痛みに苛立つ兵達に殴られるのも、片隅に物の様に積まれた骸にももう慣れた。大丈夫、大丈夫。まだ動ける。
ふわりふわり。
ああ、でもおかしい。まだ身体が熱いもの。
回復魔法が効かなかったのかな、そんなこと、今までなかったのに。
それとも漸く死ねるのかな。どんなに身体が辛くても、痛くても、苦しくても、疲れていても、お腹が空いていても、回復魔法があるからわたしは死ねないのに。もう終わるのかな。このまま。
「終わらない。シーナちゃんの身体は頑張っている。ちゃんと食べて、寝て、休んで。回復魔法に頼らず強く、元気になっているんだ」
誰かが頭を撫でている。キリかな。いつも、そばにいてくれるの。
「そうか。キリさんはいつもシーナちゃんの側にいるものな。今は薬湯をもらいに行っている。すぐに戻るさ」
冷たい感触。気持ちいい。撫でられるのも好きなの。大きな手。優しい手。
「熱が出ているからな。冷やした布を当てたら気持ちいいな。撫でるぐらいならいつでも出来るぞ」
知っている声だ。どうしたのかな。元気がないよ。お腹空いているの?
「君が心配なだけだ。熱は少し下がったな。良かった、シーナちゃん」
髪を梳く感触に、意識が浮上する。目を開けると、大好きな空の色が見えた。
ボサボサの髪に、無精髭だらけの顔。お久しぶりなガチムチライオン。
「ジンさん…。髭…すごい伸びてるよ?」
「ははは。そうだな。すごい伸びてるな」
ジンさんがわたしの頬にすりすりと頬を擦り寄せた。痛い、髭、地味に刺さってるよ。
「ジンさん。身体が重いし熱い。わたし、熱出たの?」
「ああ。4日ほど寝込んでいた。倒れたの覚えているか?」
倒れた?そう言われてみれば…。
「あの、ジンさんがドアを粉砕した時のこと?」
「ああ、そうだ。あの日から4日経っている。シーナちゃんは倒れてすぐに高熱が出て、今まで意識が戻らなかった。サンド老の見立てでは、記憶の揺り返しのせいだろうと」
「記憶の揺り返し?」
「ああ。討伐隊の時の体験は、君の中で表面的には終わったことになっているつもりでも、やはり君の心を深く傷つけていた。4日前にも、ちょっとした切っ掛けで揺り返しが起こったのだろうと」
あの時、何を考えていたんだっけ。アダムさんと話していて、どうしてそんな知識があるんだと言われて。グラス森討伐隊で嫌というほど経験を積んだせいだと思ったんだ。それで。シーナとしての幼い記憶が戻ってきて、心が耐えきれなかったのか。
「弱いなぁ」
わたしはもうシーナだけじゃないのに。大人の椎菜が付いていて、どうしてこんなに容易く揺らいでしまうのだろう。
「弱いんじゃなくて普通の反応だ。訓練を積んだ熟練の兵士だって、戦場の記憶というものに苛まれることはある。ましてや心が育ちきっていない子どもが体験するなど、もってのほかだ」
ジンさんに諭すように言われた。ちょっと、怒ってる。もちろん怒りの対象はわたしじゃなくてダイド王国なんだろうけど。
「ジンさん。夢を見たんだよ」
わたしは、ジンさんに夢の内容を話していた。良い夢じゃないけど、1人で抱えていたら、耐えられなくなりそうだった。ぽつり、ぽつりと話す内容を、ジンさんは何も言わずに聞いてくれた。
「キリが心配だよ。自分のご飯をわたしに食べさせるんだもん。ねえジンさん。キリは大丈夫かな?」
まだ夢と現実の境目がはっきりしてなくて、わたしは一番の心配事を口にした。キリの背中、痩せて骨が浮いてたんだよ。わたしにはキリしかいないから、失ったらきっと正気ではいられない。起き上がろうとするわたしの手をそっと取って、ジンさんは宥める様にギュッと握った。
「大丈夫だ。大丈夫。キリさんもサンド老から食事の指導と毎日薬湯を飲まされている。シーナちゃんの美味しい料理で、初めて会った時よりも肉がついて来ているじゃないか。心配いらないよ」
「そっか。そうだね。ジンさん。ありがとう。キリを助けてくれて」
わたしがお礼を言うと、ジンさんは言葉を詰まらせた。青い瞳が潤んでいる。
「俺が守る。必ず守る。君のことを。君が大事にしているものも全て。どんな手を使っても、守るから。だからもう、心配しないでいい。何も心配しないで、君は俺に全てを任せてしまえばいい」
優しい手が、髪を撫でる。気持ちよくて、わたしはその手に甘えた。うん、ジンさんの手は強くて大きくて安心できる。
「…うん。ジンさん。少しだけ眠るから、その間は、お願いね…」
起きたらまた頑張ろう。
それまでは、この手に任せていても大丈夫だから。
◇◇◇
再び眠りについたシーナちゃんの手を布団の中に戻した。熱も大分下がったし、少しだけ水分も取れた。
碌でもない悪夢を見ていたようだが、シーナちゃんは自分が傷ついたことより、キリさんの方が大事だったようだ。シーナちゃんらしいが、もう少し自分を大事にして欲しいと、切実に思った。
「キリさん。大丈夫か」
サンド老の元から戻っていたキリさんが、顔を覆って声も出さずに泣いていた。シーナちゃんの眠りを邪魔しないよう、気配を消して。
俺の言葉に、顔を上げた彼女は、力強く頷いて涙を拭った。
「シーナ様はグラス森討伐隊では、どんなにお辛くても、泣き言を仰ったことはありません」
キリさんが静かな声で語り、シーナちゃんに寄り添う。
「罵倒され、殴られ、傷つけられても、毎日、兵達が健やかである様に、命を一つでも救える様に、身を擦り減らしてあの地獄を駆けずり回っていらっしゃいました。私は、討伐隊でシーナ様が何かを望まれる所を一度も聞いた事はありません。与えて、奪われる事ばかりで、ただの一度たりとも」
キリさんは俺の顔を真っ直ぐに見つめる。
「シーナ様は討伐隊を出られて、変わられました。素直に、ご自身の望みを仰るようになられた。そのシーナ様が、ジンクレット殿下と、結婚したいと…。嬉しゅうございました。シーナ様が、ご自身の幸せを初めて望まれたのです」
そうだな。シーナちゃんは欲がない。いつも誰かに与える事ばかり考えている。
「私が申し上げるのも烏滸がましいのですが、ジンクレット殿下。どうか、どうかシーナ様をよろしくお願いします。シーナ様が一番幸せな顔をするのは、ジンクレット殿下のお側にいらっしゃる時なのですから」
キリさんが、拝む様に、俺に向かって頭を下げた。その目には、まるで子の幸せを無心に願う母の様な必死さがあった。
初めて会った時は、強い人だと思った。ボロボロで細い身体なのに、全身からシーナちゃんを守る気概が溢れていた。立ち塞がる壁の様で、包み込む様な柔らかさで、不器用ながらも、必死に、シーナちゃんの側にいた人。
そんな人に、シーナちゃんの側に在る事を認めてもらえた。なんと誇らしいことなのか。
「キリさん。シーナちゃんが幸せになるには、貴女が不可欠なんだ。彼女にとって、貴女の幸せも望みの一つなんだ。だから俺に守らせてくれ。シーナちゃんの大事なものを全て。頼む」
キリさんが頬を緩めた。少しだけ、彼女の肩の重荷を下ろせるなら、それでもいい。あぁ、でも。
「俺がこんな事を言ったら、バリーに怒られそうだな。キリさんを守る役目は、自分だと言うだろうからな」
つい、スルリと言葉が出てしまった。キリさんに不快な気持ちをさせてしまったかと視線を向けると…。そこには顔を真っ赤にして俯くキリさんがいた。
…おいバリー。いつの間にか外堀だけじゃなく、本丸も攻め終わっていたぞ。





