全ては母のために 5
「母……?」
その『母』とは、そのままの意味での母親のことを指しているのか、それとも別の何かを指している言葉なのか判断に苦しんでいると、レヴェーナは尚も笑いながら付け足した。
「では質問形式にしましょうか。あなたはこの世に生きる全ての生命は、一体何から産まれたと思う?」
「何から……って、そんなのわかるわけ──」
「答えは海ですわ」
グレイの言葉を遮るように断言したレヴェーナのその目は、狂気に満ちていた。
「この世の全ては母なる海から産まれたのです。生命の源、全ての始まり、この世の絶対的な存在。それこそが海であり、水なのです。だというのに愚図な人間達は水を、湖を、池を、川を、海を、私達の母を、汚して犯して辱しめるのです! あぁ! 何と愚かで恥知らずな畜生なのでしょうか。ですが母は優しく偉大で美しい。そんな者達にすら赦しの手を差し伸ばすのですから。なんと素晴らしき慈愛の心か。ですが、そんな母の寵愛を拒絶する卑しい畜生共は、その愛に唾を吐き、反省することなく再び母を汚すのです。だから私達は母に代わってそんな外道な畜生共を。いいえ、この世の全てを母なる海へと返すのです。それが私達の出来る、最初で最後の親孝行なのですわ」
興奮気味に話すレヴェーナだったが、グレイはその話にまるで着いていけなかった。いや、言いたいことはなんとなくわかる。だが断じて理解は出来ない。
レヴェーナはこの世の全ての人間を、それどころか、ありとあらゆる全てのものを海に沈める、と言っているのだ。人も、動物も、草木も花も、土地も国も、大陸さえも。全てを母なる海へと返すのだと。そんなこと理解出来るわけがない。許容出来るわけがない。
「ば、馬鹿言うな! もし仮に何もかもを海に沈めたとして、あんたらに何が残るんだ! まるで意味がねえじゃねえか! そんなことして、お前は何がしたいんだ!?」
「うふふ。水の魔力を知らないあなたは、母の愛を感じる心を持っていない畜生と同じなのですわね。私達の悲願が叶った時には、私達も母の腕に抱かれて安らぎを得る。これ以上ないほどに素晴らしき幸福ではありませんかっ!」
寒気がした。狂っている。レヴェーナという女は、破滅的なまでに狂っていた。
つまりレヴェーナは、全人類を、この世にあるありとあらゆる存在全てを巻き込んで自殺することこそが自分達の目的だと言っているのである。
そんな馬鹿げた思想を掲げる者が《水賊艦隊》の総督を名乗っているのかと。そして船員達はそんな狂人に付き従っているのかと恐怖した。
水属性の魔術師のそのほとんどが海が好きだと言われているが、彼らのその愛は異質で異様で異常過ぎる。壊滅的なまでに終わっている。
「そんなこと、出来るわけねえだろ。夢見がちな少女じゃねえんだ! 現実を──」
「《ウンディーネ》」
「──!?」
突如語られたその名。知らぬ者はこの世に一人としていない、昔話に出てくる災厄の権化。水を司る精霊の名。
「母の寵愛を一番多く受け取ったであろう、水の精霊《ウンディーネ》なら、私達の悲願を叶えてくれるはず」
「そ、それこそ──それこそただの夢物語じゃねえか!」
「そんなことはありませんわぁ。事実、私達は魔法という人知を超えた力を有しているではありませんか。何故、精霊は実在しない夢物語と断じることが出来ましょうか。何故私達の悲願を、叶うはずのない絵空事だと嘲笑うことが出来ましょうか」
確かに、誰も精霊の存在を確認したことはない。もはや大昔に書かれた文献の中の、もしくはおとぎ話の中の存在でしかない精霊だが、誰一人として、存在していることも存在していないことも立証していない。
それどころか自分達、魔術師の存在が人知を超えた何者かの存在を匂わせている。
もし本当に、精霊という存在が実在しているならば。昔話のように災厄を振り撒く最悪の存在なのだとしたら。それをもし、レヴェーナのような者が呼び出してしまったなら、確かに彼女の言う悲願は達成されるだろう。
この世の全てを海に沈めるなどという荒唐無稽な笑い話が現実のものとなって襲い掛かってくるだろう。
「それが私達の目的ですわ。ですが、今回はただの人探し。今はそのついで、と言いましょうか。あの子が見付かるまでここ一帯を海に沈めて待ってようかと思った次第ですわ」
くすくすと笑うレヴェーナの言葉を聞き、グレイは思わず自分の耳を疑った。だがそれは聞き間違いなんかではなかった。
グレイ達を、魔術師団を襲った理由はただのついでだと確かに言った。そんなほんの軽い気持ちで自分達は死の脅威に晒されているのだと。
レヴェーナの妖艶なる狂気は伝染し、彼女の話を聞いていた《水賊艦隊》の士気は上がり、魔術師団の士気は削られていく。
そこでようやくグレイは会話による時間稼ぎを逆に利用されてしまったことに気付いた。
そのせいで彼らはただのついでで殺されるというそんな理不尽な絶望を、恐怖に震える心に深く植え付けられてしまった。
「恐れる必要はありません。むしろあなた達は幸福ですわよ。いち早く母の赦しを得られるのだから。ゆっくりと、母の腕に抱かれて眠りなさいな」
レヴェーナはおぞましい魔力を練り上げて、狂人の笑みをグレイに向けた。
「さあ。全てを我らの母へと返しましょう。まずはあなた方のその汚れた魂を──」
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一方グレイとアシュラが去った後の宿舎前。前線の部隊から連絡が途絶えたという団員達の慌てふためく声が聞こえてきて、キャサリンは決断した。
「こう、なったら!」
キャサリンは重い腕を持ち上げて、自分の頭上にあるリボンを掴んで引っ張る。
シュル、とほどけたリボンを腕に巻き付けていく。
レオン達は意図がよくわからない行動をするキャサリンを見る。一体何がしたいのかと思っていると、キャサリンがリボンを巻き終えると、リボンに触れながら言葉を紡ぐ。
「《起動コード:プレシャスセブン》」
──かつて問題児三人がくれた宝箱の中に入っていた大切なリボン。その宝箱の番号は『Ⅶ』だったから。だから起動コードをこの名に決めた。
その問題児がくれたもので、今度はその問題児達を救うべく、キャサリンは初めてこの魔道具、リザーブ・リボンを起動した。
このリボンは、今までキャサリンの魔力を貯め続けた、所謂魔力貯蔵庫の役割を果たしている。その貯まった魔力をキャサリンの中へと少しずつ戻していく。それは正しくキャサリンにピッタリの効果を持った魔道具だった。
「……よし。行ってきます」
ある程度の魔力が戻ったキャサリンは、先程まで感じていたダルさは消え、体力も少し戻っていた。
「皆さんはここで待っていてください。もしくはもっと遠くへ避難を。わたしはすぐにあの二人を連れて帰ってきますから」
キャサリンはふと、膝を抱えて踞るエルシアに視線を向けたが、声はかけずにそのまま海岸へと向かって走っていった。
そのエルシアは、腕のわずかな隙間からキャサリンが走り去っていく姿を見ていたが、やはり体は動かなかった。




