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最終話

 ノーラの喉がごくりと鳴る。紗の天蓋をウルクスがめくると、そこにはバラ色の頬の少女がひとり、シーツの下に横たわっていた。

 これが、眠れるお姫様。

 溢れんばかりの輝ける金髪。真珠のような肌。扇状のまつ毛。胸の上で組まれた小さな手が、寝息とともにかすかに上下している。彼女は想像通りに美しく、ただ思っていたより幼かった。

 その姫を、ウルクスが揺さぶった。ノーラはぎょっとしたが、姫は微笑みをたたえたままで、まったくまぶたを開く気配はない。

「やはり揺さぶる程度では起きないか」

 ウルクスがいったんベッドを離れ、背負ってきた荷物に手を突っ込む。

「そういえば聞いてなかったですけど、ウルクス様、どうやって起こすつもりで……?」

「外からの刺激で起きないなら、内から刺激を与えるしかないだろうな」

 ウルクスは小さな巾着袋を取り出すと、丁重に口を開いた。

「俺の留学先は、科学技術だけでなく、薬学も進んでいた。わが国の薬学では対処しきれなさそうだったから、かの地の友人たちに相談して、とっておきのものを送ってもらった」

 中から出てきたのは、細長いガラス瓶だった。中に、白、赤、黒、茶、緑といった、さまざまな色の粉末が閉じ込められている。

「薬、ですか?」

「端的に言えば、劇薬だな」

 ウルクスはこともなげに言い、右手にガラス瓶、左手に水筒を持ってベッド際へ戻ってきた。劇薬という響きに後ずさりしつつノーラは尋ねる。

「それをお姫様に? でも、どうやって飲ませるんですか?」

「古今東西、薬を飲ませる方法といったら、ひとつしかないだろう」

 そう言われても、ピンとこない。ノーラがぽかんとしていると、ウルクスが呆れ声で「本当にわからないのか」とため息をついた。

「はあ、すみません」

「謝る必要はない。……むしろ、謝るのは俺のほうだ」

 ウルクスが、ノーラの目の前に立つ。背の高い影がノーラの顔に落ちた。

「ノーラ」

 急に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

 ウルクスの顔を仰ぎ見る。くっきりとした輪郭で縁取られる浅黒い肌。その肌色が引き立てる、光り輝く豊かな金髪。意志の強そうな太い眉毛に、嘘のない真っすぐなまなざし。

 ああ、間違いなく、この人は王子様だ。

「許してくれ。あとで、好きなだけ殴っていい」

「いったい、何を――」

 ウルクスの唇がノーラの唇をふさいで、それ以上は言えなかった。まっすぐで律儀で、ウルクスらしい口づけだった。ただひとつ違うのは、いつものようにせっかちではないこと。でもそれは、単に体感時間の問題で、ノーラが勝手に長く感じているのかもしれない。

 ウルクスがゆっくりと体を離した。呆然とするノーラに、照れた顔で告げる。

「初めてのキスは、本当にしたい相手としたかった」

 くるりと振り返ると、ウルクスは姫の枕元にひざまずく。ガラス瓶と水筒、両方の蓋を開けて、勢いよく口に含んだ。

 ようやく思い至り、ノーラは声にならない悲鳴を上げる。その瞬間、ウルクスが姫に思いきり口づけた。

 

 永遠にも思える刹那ののち、姫の喉が動き、水分が飲み下される音がした。


 ウルクスが崩れ落ちるように床に四つん這いになり、激しく咳き込む。

「ウルクス様!」

 駆け寄って背中をさするが、ウルクスは涙目になり、顔も真っ赤で苦しそうだ。劇薬を口移ししたのだ、ウルクスだって無傷ではいられまい。ノーラは必死にウルクスを支えながら転がった水筒を拾い、なんとか口元に当てる。ウルクスは口に含んだ水を喉の奥まで通さず、逆流させるように吐き出した。

「ウルクス様、しっかり」

「だいじょうぶ、大丈夫だ」

 ぜえぜえと息を吐きながら、ウルクスが顔を上げる。目線の先には姫の姿があった。姫は静かに横たわったままだ。どうかどうかと祈りながら、ノーラは固唾を呑んで見守る。

 姫が胸の上で組んだ手が、ぴく、と動いた。次に、華奢な肩が揺れた。そして、まぶたが。

 ウルクスとノーラは、息をするのも忘れて見入る。

 子猫の鳴くような声がした。それが姫のあくびの音だと、遅れて気がつく。次の瞬間、白く薄いまぶたが開いた。ゆっくりと時間をかけて、姫が上体を起こす。不思議そうにあたりを見回し、やがてウルクスとノーラに目を止めた。

 ウルクスが片膝をついた状態で頭を垂れ、凛々しい声で挨拶をする。

「お初にお目にかかります、姫君。私はこの国の第三王子、ウルキリオウス・オウデュオン。そしてこちらは――」

「ノーラ、です」

 頭を下げることも忘れ、必死でノーラは名乗る。そして付け加えた。

「おはようございます、姫様」

 姫がにこっと微笑む。見る者をとろけさせるような、春の花びらのような笑みだった。

 しかしそれは長くは続かなかった。姫のハリのある肌に急速にシワが刻まれていく。ふたりが目を見張っているうちに、豊かな金髪はやせ細り、体は筋張り、血色が失せていった。

 わずか1分もたたないうちに、幼い姫が、老女に変貌していた。声も出せないウルクスとノーラの前で、さらに姫の髪の先や指先から、砂のようなものがこぼれ落ちる。よく見ると、姫の体そのものが風化していた。あっという間に輪郭は崩れ、身体を構成するすべてが粒子となっていく。さらさらさらと、いたはずの姫君が静かに消えた。

 どこからか吹いた風が、痕跡をさらっていく。ウルクスがようやく立ち上がって検分したとき、すでに姫は跡形もなく消え去っていた。

「100年分の時間が、今、過ぎていったのか……」

 これが、魔法が解けるということなのだろうか。まだぬくもりの残るベッドには、ぼろぼろになったドレスと、白い砂だけが落ちている。

 人智を超えた出来事に圧倒されていたノーラだったが、ハッと我に返ってウルクスを見上げた。

「ウルクス様、体調は!?」

 呪いを破るほどの強力な薬だ。ウルクスの身にも害が及ぶのではと思うと、気が気でない。

「大丈夫だ、心配いらない」

「でも、劇薬ですよ」

 食い下がるノーラに、ウルクスはけろりとした顔で言った。

「コーヒーから抽出される精神刺激薬の濃厚なやつに、唐辛子などの刺激物や、粉砕した香辛料をたっぷり混ぜてもらった。さすが、かの国のものは純度が高い。死ぬほど辛くて苦かった。まあ、一種の劇薬だ」

 呆れるべきなのか、笑うべきなのか、怒るべきなのか。答えを出す前に、ノーラはウルクスに頭から突進していた。胸のあたりにきれいに頭突きが決まり、ウルクスが「ぐっ」とうめく。

「殴っていいとは言ったが、頭突きとは……。本当にじゃじゃ馬だな」

「心配したんですから。でも、ご無事でよかった」

 頭をぶつけたまま、ノーラが文句を言った。

「本当によかった」

 笑う気配とともに、大きな手のひらが、ノーラの頭をぽんぽんと叩く。主を失ったがらんどうの城で、ふたりはしばらくその体勢でいた。


「父さん、帰ったよ!」

 夕暮れとともに里のわが家に辿り着いたノーラは、ドアの内側に飛び込むと、一目散に奥の寝室へと走った。

「加減はどう? 父さん!」

 廊下の奥のドアをあける。窓際のベッドに父親が横たわっていた。昨日出かける前とほとんど同じ光景なのに、なにもかも変わったように思えるのが不思議だ。

「父さん! 父さん!」

 何度も呼ぶのに、父親はぴくりとも動かない。最悪の想像をしてノーラは心臓の上に耳を当てる。そこにはしっかりと脈動があった。

「父さんってば」

 もう一度肩を揺さぶりながら呼ぶと、父親は億劫そうに眼を開けた。

「なんだ、ノーラか。うるさいな」

「なんだじゃないわよ。無事に帰ったよ!」

「そいつはよかった。今日の昼から、とてつもなく眠くてな……」

 そう言って父親はまた眠りに落ちてしまった。力が抜け、ノーラはベッドに腕を置いたまま、へなへなと床に腰を下ろした。

 父親の健康そうないびきが鳴り始めた。子どもの頃から何度も「うるさい」と文句を言ってきた音だ。このうるさくて愛おしい音を、ノーラは思う存分味わう。

 変化はノーラの家だけではなかった。里のあちこちで、健やかな寝息が上がっていた。


     *


 ほんのり明るくなり始めたばかりの道を、ふたりの男が歩いている。

「よかったのですか、ウルクス様」

 完治しきっていない右足をかばうように歩きながら、ヨハンネスがウルクスに視線をやった。ウルクスはヨハンネスに合わせて、少しばかり歩幅を狭めている。

「こそこそ抜け出すのではなく、ちゃんと挨拶してから出立するべきだったのでは」

「ただでさえ予定より長い逗留になったんだ。これ以上気をつかわせたくない」

 ヨハンネスが大袈裟に驚いてみせた。

「ウルクス様の口から、そんな言葉が聞けるとは。この数日でずいぶん大人になられましたね」

「やかましいぞヨハンネス。お前も急に口うるさくなったんじゃないか?」

「私はいつも、ウルクス様にとっての最善を考えているだけですよ」

 里の出口が見えてきた。この不思議な森ともお別れだ。

 王都に戻ったら、正式に役人と医師を派遣して、眠れずの病の調査にあたらせる。だが、この数日間の患者たちの様子を見るに、仕事量はそう多くないだろう。自分たちがやってのけたことに比べれば。

 本当に、夢を見ているような数日間だったとウルクスは思う。現実のこととは思えない、不思議な冒険。だが夢はいつか醒める。この胸の奥に感じるかすかな痛みも、姫が砂と化したように、いずれ離散していくだろう。

 ヨハンネスの意味ありげな視線を無視して、ウルクスは道の先を見ながら脚を動かすことに集中した。

 そのとき、そばの茂みからガサガサと音がした。野犬かと、ウルクスとヨハンネスが身構える。勢いよくひとつの影が飛び出してきた。

「追いついた!」

 大荷物を背負い、後頭部に葉っぱをくっつけたノーラが、荒い息を吐きながら、膝に手を当てて立っていた。呆気にとられながら、ウルクスは「いったい、どうして」とつぶやく。

「こっちのセリフですよ。明け方から、なんだかごそごそ音がすると思って部屋を覗いたら、もぬけの殻だったから、慌てて追いかけてきたんです」

「追いかけてきたのに、なぜ目の前から現れる」

「獣道を使ったからに決まってるじゃないですか! あたしがこの里の人間だってこと、忘れてません?」

 いや、そんなことは今はいいんですと言い直し、ノーラが背筋を伸ばし、額の汗をぬぐう。ひとつ呼吸をして、口を開いた。

「ウルクス様、あたしには学がありません」

 走ったのとドキドキしているのとで、ノーラの体じゅうが心拍音でうるさい。その音を全身で聞きながら、一言一言はっきりと伝える。

「科学のことも、商いのことも、不得手です。自分なんかがわからなくていいと思っていました。けど今は違います。学びたいと思います。外の世界を知るために。なにより、ウルクス様のお役に立つために。だから一緒に行かせてください。迷惑なのはわかっています。でも本気なんです!」

 聞き終えたウルクスが、顔をしかめて黙り込んだ。あたりには、はあはあと粗いノーラの息だけが響く。

 ややあって、ウルクスが重い口を開いた。

「……俺は曲がりなりにも王位継承権を持つ王子だ。仕事は多いし、敵も多い。不確定要素が多すぎる。きっと苦労するだろう。ついて来いとは言えない」

 ノーラは即答した。

「あたしは自分の意志でついていくんです。お城で言いましたよね。もしダメだったとしても、あたし、後悔なんてしません」

 根性だけは自信がある。絶対に退かない覚悟で、ノーラはウルクスを見つめ続けた。いつの間にか昇りつつある太陽が、そんなふたりの横顔を照らしている。

 根競べのような見つめ合いのあと、ウルクスが表情をゆるめた。手を伸ばして、ノーラの頭についた葉っぱを取ってやる。

「訂正する、『ついて来い』なんて言い方はふさわしくないな」

 ノーラを連れて帰ったら、大臣たちはもちろん、父である国王陛下も目を白黒させるだろう。寝ぼけている王宮を叩き起こすには、このくらいの劇薬がちょうどいいのかもしれない。非効率的な制度は変える必要がある。

 きっとうまくやれるだろう、自分たちなら。

「一緒に歩んでくれるか? ノーラ」

 ウルクスが恭しく手を差し出した。

「行こう、俺のお姫様」

 第一侍従が拍手するなか、村娘は王子の手を取った。木々の上では、朝の鳥たちが祝福のように歌っていた。


 眠れる森で出会った彼らは、いずれこの国の国王と王妃と宰相になるが、それはもう少し先のお話。


お読みいただきありがとうございました。


2011年にスタートした、おとぎ話を翻案する試みの『Otogi Stories』。「トム・ティット・トット」を原案とした「二千万円の名前」、「竹取物語」を原案とした「何もいらない」に続き、「眠り姫」を原案とした本作「眠れる森の野良娘」が、3部作の最後を飾る作品となりました。


振り返ってみると、おとぎ話というフォーマットを借りることで、普段とは少し違う書き方やストーリーに挑戦できた気がします。単純に言えば、3作とも非常に少女漫画的だなと自分では思います。

実は中学3年から高校1年にかけて、『花とゆめ』に漫画を投稿し挫折したという黒歴史があるのですが、そんな少女漫画への憧憬を、Otogiシリーズでは存分に昇華することができました。


本作『眠れる森の野良娘』は、庶民と王子様という設定、最初は相手のことが気に食わないけど、一緒に過ごしているうちにだんだん…という心情の変化、魔法の森といった舞台など、わかりやすいキーワードをちりばめて、開き直って書けて楽しかったです。ノーラという名前は、そのまんま野良娘から。ウルクスという名前は、その世界ではあまり聞き慣れない、ちょっと変わった響きという設定で、貴人らしさを出してみました。

ヨハンネスは貴公子だけど意外とおばさんっぽいというか、お節介で、ウルクスのことが好きで好きでたまらないという設定。ウルクスとヨハンネスのやり取りは書いていて楽しかったです。


Otogiシリーズはこれにていったん終了の予定ではありますが、「人魚姫」などほかにも構想がありますので、いつか実現できればいいなと思います。

ご意見、ご感想等お待ちしております。どうもありがとうございました。

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