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第6話

 記憶が正しければ、目的の城まではあと1~2時間しかかからない。しかしはしゃぐ気分には到底なれず、むしろ進めば進むほど、緊張が高まっていく。

 隣を歩くウルクスも同じようで、太い直線の眉を寄せて、睨むように前を見ている。

 緊張感に耐えられなくなったノーラは、ウルクスに話しかけた。

「さっき……ヨハンネス様がおっしゃっていた、エミレアって、どなたですか」

 雌鹿が喋ったという話のとき、確か「エミレアの声で」と言っていた。

「財務大臣の次女で、ヨハンネスの許嫁だ」

 もしかしてとは思っていたが、やはりそうだった。高貴な人たちには、もれなく高貴なお姫様がついてくるものだ。それはきっと、ウルクスだって例外ではない。

「ウルクス様にも」

「なんだ?」

「その……許嫁の方が?」

 ウルクスは眉をかすかに動かした。

「俺にはいない。だが20歳になったら、決めなければいけないことになっている」

 ということは、あと1年もないではないか。安堵しかけたノーラの心が、落胆に転がっていく。ウルクスは王子なのだから、お姫様と結婚するのが当然だが、できれば誰のものにもならず、このまま自由でいてほしい――そんな勝手な感情が心の中で渦巻いた。

「姫が眠り続けているのは、もしかして、結婚したくないからかもしれないな」

 予想外のセリフに、ノーラは虚を突かれた。

「どういう意味でしょうか」

「王侯貴族は、たいてい勝手に選ばれた相手と婚姻を結ぶ。ヨハンネスとエミレアのように、幼馴染で仲がいいのは滅多にないパターンだ。顔も性格も知らない相手と、出会った日に結婚式を挙げることだって珍しくない」

 心底いやそうに、ウルクスは顔をゆがめた。

「間違っていると思わないか? たまたまうまくいくこともあるだろうが、不確定要素が多すぎる。気の合わない相手と無理やり一緒になったって、生産性が下がるだけだ」

 ウルクスらしい言葉の選び方に、ノーラはつい噴き出した。

「笑うところじゃないぞ。非効率的な制度は、変えていかないといけない」

「ええ、そうですね」

 目覚めれば現実が待っている。でも夢の中では自由でいられる。ウルクスが言うように、だから眠り続けているのだとすれば、雲の上の存在と思っていた姫が、とても人間らしく感じられる。

 王子様やお姫様は、何不自由なくて、ただ美しくて、憂いのない暮らしを送っているのだとノーラは思っていた。でも、そうではない。彼らだって人間だから、いやなことやつらいことも当然あるのだ。この旅で、ノーラはそれを知ることができた。

「それにしても、科学だなんだとおっしゃる割に、想像力が豊かなんですね」

「わかっていないな。科学の基本は想像力だ」

 ウルクスが得意げに言う。

「あ、また馬鹿にしたでしょう」

「今のは違うぞ」

 焦ったように釈明するウルクスに、ノーラは「わかってますよ」という言葉とともに、ふふっと笑いかけた。

 ウルクスが目をしばたかせたのち、口角を上げる。

 醒めてほしくない夢があるとしたらと、ノーラは思いを巡らせた。自分にとって、それは、もしかしたら。


 人間の背丈の何倍もある木々の間を通り抜けていく。森の入り口よりも濃さを増した緑は、ほとんど黒に近い色で、その隙間から針のような光が差し込む。忘れもしない、幼い頃に一度見た景色。ここを抜ければ魔法の城だ。ぼんやりと光る出口を、ウルクスとノーラは同時にくぐった。

 まぶしさに目を細めたのち、ふたり一緒に感嘆の声が漏れる。

 堂々たる城がそびえたっていた。4本の尖塔に守られるように本殿があり、中央には華奢な細工が施されたバルコニーがせり出している。白壁は100年経っているとは思えないほど輝いていて、屋根の部分は空と同じブルーのタイルで彩られていた。ただ唯一、そこらじゅうに絡みついた蔦とイバラが、年月を感じさせた。

「すごい」

 さすがのウルクスも言葉を失っている。森の奥深くにこんな威容の城が鎮座しているなど、あまりにも非現実的な光景だった。

 どちらからともなく足を踏み出し、城に向かって歩き始める。地面には色とりどりの花が咲き、小さく風に揺れている。まるで天国への道を進んでいるようだと、ノーラは思った。

 緻密に絡み合った蔦とイバラの間から、城門を見つけ出す。軽く押してみると、ギイと音を立てて内側に開いた。ここから中に入れるようだ。

 しかし、いつもなら先陣を切って進むはずのウルクスが、立ち止まったまま動かない。

「ウルクス様?」

 怪訝に思ったノーラが、はっと息を呑む。ウルクスの体が、傍目にもわかるほど震えていた。

「情けない。ここまで来て、怯えているらしい」

 小刻みに震える両の手のひらを、ウルクスはじっと見つめている。

「呪いが怖いわけじゃない。姫を起こすことで本当に呪いが降りかかるというなら、それはもう仕方がないだろう。それよりも……昨晩ヨハンネスが、俺たちがふたりきりで行動していることについて話していたのを覚えているか?」

 ノーラが頷くと、ウルクスが「あの話は過大評価だ」と嘆息した。

「姫を起こすことで病気が解決できるというのは、俺なりに調査して導き出した仮説だ。だが城の医者も学者も、はっきりと賛同するものはいなかった。そんな計画には予算も人員も出ない。王子の酔狂だと言われ、俺とヨハンネスだけで来ざるを得なかったというのが実際のところなんだ」

 ウルクスからいつもの堂々とした佇まいが消え、ただの19歳の青年としての横顔が研ぎ澄まされていく。

「ヨハンネスやお前を危ない目に遭わせてまでここまで来たが、もし仮説が誤っていて、すべて意味のない行動だったとしたら。何の解決にもならないとしたら。俺は、それが怖い」

 ウルクスの震える手に、ノーラのまろやかな手が重なった。ウルクスが弾かれたようにノーラの顔を見た。

「あたしの父親は、眠れない病にかかっています」

 発症したのは、1か月ほど前のことだ。最初は少し寝つきが悪い程度だったのが、じわじわと夜も昼も眠れなくなった。信じたくなくて目を背け続けていたが、ついに発症したのだと認めるにはもう十分だった。

「会ったときの様子で、もしかしたら、そうではないかと思っていた」

 再びウルクスがうつむく。この人はきっと、申し訳なさを感じているのだろう。自分が悪いわけでもないのに。心臓がきゅっとなるのを押さえるように、ノーラはウルクスの手を握る。

「ウルクス様が、病気を解決するためにお姫様を起こすと聞いて、もちろん最初はびっくりしたし、今も完全に理解できているわけじゃありません。怖いとも思います。でも、いつも人のために行動される姿を見て、あたし、とても尊い方だなって……。だから、ほんの少しでも可能性があるなら、たとえ結果がダメだったとしても、後悔なんてしません。ウルクス様のお手伝いをさせてほしいです」

 こんなつたない言い方で、伝わるだろうか。こんな薄汚い村娘が、王子様を支えたいと、厚かましくも本気で想っている気持ちが。

 ウルクスがノーラの手を払う。拒否されたのかと青ざめる寸前、ウルクスは右手を額の前に、左手を腰に当て、片膝を優雅に折る。そのなめらかな動きは、初めて見たノーラにも、貴人流のお辞儀なのだと理解できた。

「ありがとう。心から光栄に思う」

 その言葉と動作にはすでに、王子の威厳が取り戻されていた。

 体勢を直し、ごく自然にノーラの手を握り直して、ウルクスは一歩踏み出した。


 城の中は、外以上に、時間の流れを感じさせない空間だった。掃き清められたばかりのような大理石の床、ホコリひとつない彫刻や絵画。大広間のテーブルと椅子は、ついさっきまで誰かが座っていたように見える。今にも動きそうな時計の針は、12時を指して止まっている。

 物珍しさにきょろきょろとあたりを見回すノーラの手を、ウルクスが「こっちだ」と引っ張った。

「ウルクス様、道がわかるのですか?」

「城なんてのは、たいてい同じつくりなんだ。おそらく姫が眠るのは最上階だろう」

 白亜の大階段を、手を取り合って上っていく。踊り場を曲がるたびに、茶色いスカートの裾がふわりと広がる。もし晩餐会に参加するとしたらこういう感じなのだろうか。不謹慎と知りつつノーラは夢想した。

 最上階の部屋のドアを、ひとつずつ開けていく。豪華だが無人の部屋が続き、いよいよ突き当りの最後の部屋となった。

 ほかの部屋に比べて控えめな装飾のドアだった。ノブをひねると、かぐわしい匂いがした。まるで春のような。

 床からカーテンから調度品から、白で統一された部屋だった。壁にはバラの透かし模様が彫られており、シンプルだが手が込んでいるのがわかる。

 そして部屋の中心には、天蓋付きの白いベッドがあり、人のシルエットが透けて見えた。

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