第63話 スチームパンクの中の名探偵アン(3)
「……ふう」
トイレから出て、ハンカチで手を拭く。
異世界に来るまでは、ハンカチはあんまり使わなかったな。
どこの公衆トイレにも必ず紙の手拭きが常用されていたし、なかったとしてもジェットタオルがあったからな。
だけど、ここにはない。
ハンカチが結構必須なのだ。
まあ、ここは最先端蒸気機関車で、賃金も高い。
ちゃんとしたトイレが設置されていただけでもありがたい。
場所によっては異常なまでに汚かったり、扉の下半分がなかったりするところもあった。
頭隠して尻隠さず、の言葉通り過ぎるだろ。
尻丸見えで、そのまま外に出た時に人と会うのが気まずかったな。
あれは設営代をケチったのか、それとも臭いが籠らないためにしたのか。
未だに分からないな。
「ん?」
ハンカチで丹寧に水気を取っていると、窓越しに座っている男が目についた。
最も高額な座席料金である第一号車なだけあって、乗客がほぼいない。
それだけの理由で目に入ったのではなく、問題は男の格好。
服装だ。
今スチームパンク号が向かっているバベルミラージュの正装は紳士服。
だから、男が着こんでいるのがタキシードであっても問題はない。
杖を椅子に立てかけて、蝶ネクタイ。
眼には大小複数のレンズの最先端モノクル。
ご立派な髭を蓄えていて、乗車中にシルクハットを眼深に被っている。
中々にオシャレ――なのか?
現代日本だとファッションは出し尽くされていて、奇抜な服装や大胆なメイクをする人間は少なかった。
映画の中出てくるような恰好で、現代日本ではまずお目にかかれない姿。
それだけでも視線を引き寄せられるのだが、一番気になったのは手遊び。
持っているスプーンをブラブラ揺らしている。
ラバーペンシル・イリュージョン。
とかいう名前だったけ?
横にした鉛筆を揺らすと、曲がったように見える現象のこと。
子ども騙しだが、この異世界だと珍しいものなのかな?
楽しそうに独りで振っている。
大の大人がだ。
顔が見えないので正確な年齢は分からないが、俺よりも年上だろうな。
あの服装と、乗車している号車から推察するに。
唯一のトイレは俺が使ったばかり。
ということは、相席している人間はいない。
独りきりということだ。
誰かに見せて喜んでいるわけではない。
それなのに、車内販売であったスープについてきたスプーンを使って遊んでいる。
その痛々しさが見ていて辛い。
視線を逸らそうとすると、紳士服の男はピタリ、と手を止める。
そして、親指をスプーンにつけると、グニャリ、と本当に曲げた。
片手だけで。
物理的に。
あー。
知っている、知っている。
金属製のスプーンを片手で曲げる。
普通に考えれば不可能。
手品の定番で使い古されたやつだ。
色々とやり方はあるけれど、有名なやつは、そもそも安物のスプーンを使えば簡単に曲げられる。
それと、両手ならまだしも片手で曲げるのにも種がある。
片手じゃ力が伝わり切らないから曲がらないと思われがちだけど、力を逃がさないための工夫がされている。
それが小指だ。
小指でスプーンの端を抑えることによって、より力を込められる。
だから、スプーンを片手で曲げることに、そこまでの不思議さはない。
「え?」
紳士はスプーンをそっと置くと、カップを手にする。
縁をつかみ取ると、そのままグニャリと曲げる。
カップに切れ目が入る。
まるでリンゴの皮むきのように、切れ目からカップを壊していく。
2㎝程度に剥いているように見えるが、ナイフなど手に持っていない。
素手でカップを解体している。
指の力が強かったり、カップが陶器以外の材質で作られているのならばバキバキに破損するはず。
破片がばらまかれるはず。
だが、カップは全て繋がっている。
そんなの、あり得るわけがない。
「ど、どうやってんだ?」
ヘビのようになってしまったカップを元の形に整えると、陶芸家のように手で包み込む。
ギュっと力を込めたと思ったら、すぐに手を放す。
すると、そこにあったのは、元々あったカップだった。
種が分からない。
元々あったカップは偽物だった?
何か違う材質で作られていて、本物はどこかに隠していた?
そして、いつの間にか取り換えていたのか?
一瞬、手ですべてを覆った時が怪しいな。
だが、カップには柄が入っている。
スチームパンク号の柄がだ。
それを俺はずっと目撃していた。
だから、手で覆う前後で入れ替わったという線は消える。
だとしたら、どういうことだ?
うーん。
中々面白い見世物だな。
大道芸人か何かか?
芸の練習でもしているのかもしれない。
その道で稼いでいるプロかもしれない。
手品っていうのは、視覚的死角ではなく、心理的死角を突くもの。
知識がなければ観客は騙されてしまうもの。
仕方ないこと――
ドォオオン!! と腹の底から響くような爆音が後方車両から轟く。
俺は音源に向かって反射的に走る。
異常事態だ。
今のは爆発の音。
しかも、車内から聞こえた。
事故か、それとも事件か。
どちらにしても、聞えてきたのは俺が座っていた車両側から。
もしかしたら、ビブリアが巻き込まれたかもしれない。
いや、正直、ビブリアが何かをやらかしている可能性の方がある。
俺は冷や汗をかきながら、ドアに手をかけた。




