第82話 恐怖を越えるもの
部屋へ戻ると薄暗い照明の中で、亡霊のようにシーツを被り、蹲るレイカが見えた。
ハルカは入り口にある、照明調節器で部屋を明るくする。
部屋が暗いと、気持ちまで暗くなる。
……いや、逆だろうか。
気持ちが沈んでいるから、明るいところに居たくないのだろうか。
どちらにしても暗いままなのは良くない。
環境が良ければ、気持ちも変わって来るだろう。
明るく柔らかい照明へと変更する。
仄かに温かく感じる、優しい色……。
なにも言わず部屋の中へ進み、帰って来た事を告げるように、静かな音を立てながらレイカへ歩み寄る。
ベッドの上で蹲るレイカは、小刻みに震えている。
また、泣いているのだろう……。
ユウを恐れて、精神を病んでしまってから――
三週間は経とうとしている。
ハルカはそっとレイカへ寄り添うように、ベッドの上へ座った。
そして、とん……と、背をつけて、ハルカの存在をレイカへ伝える。
傍にいるよ、ここにいるよ……と。
食堂から貰って来た、固形食糧とプリンをレイカの横へ置いた。
蹲り、膝を抱えた腕を下ろせば、すぐに気が付く絶妙な位置に。
泣いていても、生きているのだから、お腹はすく。
心が死んだようになっていても、生き続けなければならない。
それが生きている者の務めだから。
死んでいった者への……守ってくれている人への義務だから。
一日三食とまでいかなくても、食べればそれで良い。
足りない分は医務室で、薬と共に栄養を補給させている。
生きていれば、またあの元気なレイカへ戻る時が、きっと来るだろう。
その時――
ユウへの愛が、失くなっているというのなら……。
「……ユウ、怒っていたね……」
固形食糧を食べようと口を開けた時、レイカが、か細い声で呟いた。
背を合わせたまま、ハルカは振り向く。
俯いていた顔を少しだけ上げて、ハルカへ呟くようにレイカは言った。
「私ね……ハルカがユウへ”なにか言って”と言ってくれた時、優しい言葉を期待していたの。こんな私でも甘えて良いような言葉を……優しい顔を……。
ユウなら、してくれると信じていた。ユウは優しいから……」
ハルカは、なにも言わずにレイカの言葉を聞く。
背をつけて軽く俯いて……色んな想いが交差していく――
親友のレイカを、大事に思う気持ち。
ユウを、想う気持ち――
「でも、ユウから出た言葉は……”なにも言う事はない”……」
レイカは振り向いて、ハルカの腕を掴んだ。
被っていたシーツが滑り落ち、そのままベッドの下の床へ音もたてずに雪崩れていく。
ハルカの二の腕を、爪を立てるようにレイカは力いっぱい握り締め――
震える手と身体で、激情をハルカへと叩きつけた。
「どうしよう、ハルカ……ユウ怒ってた……! あんなに怒ったユウ、初めて見た……。あんなに冷たい目のユウ……、初めて見た……!!
もう”なにも言う事はない”ほど、私に失望して、もう”なにも言う事はない”ほど、私とは関わりたくないんだ……!!」
爪を立てたレイカの指が、ハルカの腕の肉に突き刺さる。
痛い――
これが、今のレイカの痛み――
でも違う。
ユウの痛みは、こんなものじゃない。
辛くて、哀しくて……
生きる事と両立できなくなってしまった、レイカとの記憶。
戦うには、持っていては死へと繋がる、愛の記憶――
”守る”為に戦っている、それは変わらない。
だけどそれがレイカの為ではなく、地下施設に住む仲間全員に代わっただけ。
元からある理由のひとつが消えただけ……
ユウの戦いに、なにも変化はない。
あるとするなら……
捨てられた記憶の中の、レイカとハルカだけだ。
ハルカは、もう覚悟は出来ている。
初めから、始めれば良い。
ユウから、記憶が失われていても……
そのユウを建て、記憶がないことに一切の負担を負わせず、ユウとの関係を再び築き――
陰から、愛し続ける自信はある。
だけどレイカはどうなのだろう。
ユウに甘え、理想をユウに重ね
勝手に夢を見て、勝手に怯え恐れる。
愛を語るには、愚か過ぎる。
ユウの相手となるには……覚悟が足りなすぎる。
それでも――
「ハルカ……私……。
ユウが怖くて怖くて、ユウの声が聞こえなくなっている事に気が付いてなかった。
あんなに簡単に聞こえていたのに、今はなにも聞こえない。どんなに耳を澄ませても、どんなに心を集めても、ユウの声が聞こえないの……!」
「怖かったんじゃないの?」
「怖い……今も、凄く怖い……。だけど聞きたい。ユウの声が聞きたい。
だけど聞こえないの。聞きたいのに、聞こえない。どうしたら良いの……教えてハルカ、教えて……!」
「会いに行けば、良いんじゃないかな」
――そう、簡単な事だ。
そんな特殊な能力に頼る必要なんて、ない。
声を聞きたければ、会えば良い。
会って直接、声を聞けば良い……
生きて、ここにいるのだから。
「ユウさまが……好きなんだよね。きっと、今も」
大粒の涙をぼろぼろと落とすレイカを、まっすぐに見て、ハルカは微笑んだ。
甘えん坊のお嬢様……きっと今も、なにも判ってはいない。
ユウを、愛するという事――
それがどれだけ、リスクがあるという事なのか。
でも、止められないんだ……。
好きな気持ちが”怖い”を通り越して、求めている。
数え切れない、命を奪っている
――殺戮者である、ユウを――
ユウは、この先も多くの人間を殺し続けるだろう。
その小さな身体に、背負いきれない程の業を積み重ねていくのだろう。
それでも傍にいる自信があるのだろうか。
再びユウに、辛い思いをさせない約束が出来るのだろうか。
もしも同じ過ちを犯すのなら、その時は――
ハルカはポケットの中から髪飾りを出した。
大事に大事に、身から離さず持ち歩いていた、ユウの”心”。
涙に濡れ、目を真っ赤に腫らして酷い顔をしたレイカへ……
その髪飾りをつける。
似合っている。
誰よりも、ハルカよりも――
やっぱりこれは、レイカのものだ。
軽く溜息をついて、一度目を閉じる。
今は、言わないでおこう……。
まだ、なにもハッキリとしていない。
判ってからで良い。
”可能性”だけを危惧して、レイカへ伝える事はない。
ゴードンだって、あんなに思い詰めていたのだから……。
「とりあえずさ。ご飯食べて、顔洗って、可愛いレイカになって。
それから考えようよ。大丈夫、ユウさまは怒ってなんか、いないよ。ユウさまが本気で怒ったら、瞬殺されちゃうんだから!」
ハルカは歯を見せて、悪戯っ子のように笑った。
ゴードンにも見せたように、お道化て――
「本当に? 本当に怒ってない?」
「ないない、大丈夫。今ちょっとユウさま、変なだけ。サブリーダーになって忙しいからじゃない?」
全部、嘘じゃない。
ゴードンから聞いた事は、話半分にしておこう。
そしてレイカが落ち着いたら、話してあげよう。
ユウが死にそうになって帰って来た事があると……
記憶喪失の疑いがあった事を……
ハルカが外から来た、人間であるという事を……。
そして、いつか話せるだろうか。
この誰にも言えない……ユウへの気持ちを
――親友の、レイカに。




