29 振り
目の前に、血飛沫が舞った。
その時の私は、何が起こったのか、本当にわからなかった。例えるならば、あっという間に黒い突風が部屋の中に吹き荒れた。
私は何度目かの悲鳴が聞こえたところで、これはとんでもないことになってしまったのかもしれないと思った。
目の前で何人も、呆気ないくらいに倒れて行く人たち。残念ながら、王族の一人である私を攫おうと企んでそれに失敗した時点で、彼らの行く先はこうなっていた。
ダムギュア王国側がこれをどこまで知っているのかはわからない。けれど、私はダムギュア王太子ルイ様とお茶をしている間に眠くなってしまった。
だとするならば、間違いなく彼がこの事態に関与していると思って間違いないだろう。
……彼は一体何を考えているのだろう。私を攫えばこうなることはわかっていたはずだ。それなのに。
私はそこに立ち尽くす黒い影を見て、ようやくその名前を呼んだ。
「……デューク!」
彼は黙ったままで、私の方へと振り向いた。血が散った顔の中にある昏い瞳と視線を合わせた。夜の闇よりも深く、何かを吸い込むような。
デュークは常に飄々とした態度を貫く、余裕ある彼ではなかった。私を認識しているのかも疑わしい。まるで、獲物を捕らえた飢えた肉食獣。喉を搔き切るその瞬間を待っているかのような、強い緊張感。
ああ。我を忘れてしまっている。どうして……まるで、デュークがデュークではなくなってしまったような……。
「私よ。もう敵は居なくなったわ……大丈夫。落ち着いて……」
デュークは私の元へと辿り付く、こてんと頭を寄せて目を閉じていた。
彼は誘拐した一味を倒してしまうまで、本能のみで動いていたようだ。死の危険が、今は去ったと思ったのかもしれない。
そして、私はどうしようかと思った。私の護衛騎士たちは、今は何をしているのかしら。もし、ルイ様は主犯だとすれば……彼らは今は殺されていてもおかしくはない。
王族が王族に手を出すなどと、宣戦布告に近しい。
「なるほど。あれで、殺されたんですね。我がダムギュアの数多くの兵士たちも」
私はその声が聞こえた方向を見た。そこに居たのは、ダムギュア王太子ルイ・ヴェルメリオ。やはり、私を誘拐しデュークをここに呼びだしたのは、彼だったようだ。
「……どうして。こんなことを?」
彼だってそうなるとわかっていてやったことだろうけれど、二国間で協議を重ねて時間をかけて築かれた友好関係は、もうこれで終わりだ。
国の利益を考えれば、今ダムギュア王国がユンカナン王国と事を構えて何の良い事もない。この前の戦争では大敗を期し、敗戦国として課せられた賠償金を支払わねばならないし、今では武力は圧倒的にユンカナン王国の方が勝っている。
しかも、次なる戦争は王族の私を害そうとしたことが発端となるならば、ユンカナン王国だって舐められた真似を許す訳にはいかない。
次は全面戦争になる可能性だってある。
そんな不利な状況にあると言うのに、ルイ様は私におっとりとした優しげな笑みを見せた。
「ええ。そうですね。理由を知りたいでしょう。ですから、教えて差し上げましょう。そこの黒獅子に僕は親友を殺されたんですよ。身分はない騎士でしたが、僕にとってはかけがえのない存在で……ユンカナン王国に行った時に見て驚きました。強い強いと言われているのに、姿は痩せた長身の男だ」
「……戦争にはそういうことが付きものだと思うわ。それを言うならば、我が国に戦争を仕掛けなければ良かったのではないの? お父様を止めることは、貴方ならば出来たでしょうに!」
結局のところ戦争というのは、戦闘員は使って両国の王族が戦っているのだ。ダムギュア王国が戦闘員を使って攻め込むのならば、我が国だって応戦せざるをえない。
「僕だって……僕だって、戦争は止めたさ! ユンカナンには獣人という化け物が居るんだから、手を出さない方が良いんだと! 父は何を言っても、聞かなかったんだ!」
声を荒げて叫び出したルイ様を見て、私は今ある状況を冷静に考えていた。デュークさえ目覚めてくれれば、私がさっき香炉を投げ捨てた窓から飛び降りて貰えるはず。
「化け物ではないわ。失礼なことを言わないで。私にとっては、大事な自国民よ。けれど、別にその意識を正すつもりもないわ。だって、ダムギュアで起こることは、私の責任の範疇にはないもの」
「獣にその身を変えることが出来るなどと……結局のところ、獣の姿が本性なのだ。気味の悪い化け物だ」
眉を顰めてそう言われても、彼とは違う教育を受けてきた私には、全くわかってあげられない気持ちだわ。
あの興奮状態で我を忘れていたデュークに変貌してしまった理由が、私にはわからない。あのお香のせいであるならば、すっかり空気が入れ替わった今では効果はなくなってしまっているはず。
けれど、別の理由であれば、すぐに意識を取り戻すことは難しいかもしれない。
何かで話を引き延ばして、時間稼ぎが必要なのかしら。
「……私はこの国に残るから、私の護衛騎士たちとデュークを解放してちょうだい」
「なんだと?」
ルイ様は私が何を言い出したのか、すぐに理解は出来なかったようだ。
「あら。以前にお会いした時に、私に結婚を申し込みに来たことを忘れたのかしら? つまり、婚約者候補として私の希望でダムギュア王国へ留まってあげるから、彼らを解放しろと言っているの」
もちろん。ルイ様と結婚する気なんて、毛頭ないけれど、今この場をどうにかしようと思ったら、それしかない。
私の身には利用価値がある。けれど、彼らはすぐに殺されてしまうかもしれない。
「アリエル姫の護衛騎士は確かに、全員捕らえている。近くの部屋に居る」
「……そう」
やはり交渉道具にしようと命は助けていたらしい。私はほっとした。自分のせいで誰かが死んでしまったと思えば、あまり気持ちは良くないものだ。
「護衛騎士は、解放しても良いだろう。だが、黒獅子は駄目だ」
「あら。どうして?」
私は内心とても焦った。実際のところ、私が自分の身を引き換えにしてでも、一番に逃がしたい人物がデュークなのだ。
「それは我が国で、獣人の研究をしている者どもが欲しがっている」
「……獣人の研究ですって? もしかして……」
私はその時、あの謎の盗賊団がわかった気がしていた。獣人たちの能力を研究し、その上で利用しようとしているから……だから、あんな不完全な獣化をした人たちが居たんだ!
「さあ。アリエル姫が何を思いついたかは、それはわからないが……黒獅子は無理だ。引き渡す先が決まっている」
淡々とそう言ったルイ様には、とりつく島もないようだ。
デュークを、研究材料にするですって?
殺される方がマシなような目に遭わされることがわかっている場所へ連れて行かれるなんて、
「……では、私はここで死ぬわ。人が大勢死ぬ戦争の発端になるのは嫌だけど……それも、仕方ないわね」
私が居ないとなれば、ユンカナン王国は何も遠慮することなく、ダムギュア王国を焼け野原にしてしまうだろう。
「そんなにも俺の事が好きな人を残して、寝ていられませんね」
意識を失っていたと思っていたのに、むくりと起き上がったデュークに、私は驚き過ぎて悲鳴をあげてしまった。
「起きてたの!? 寝たふりするなんて、ばかばかばかばか」
私はあまりの驚きに、咄嗟に子どもっぽい事しか言えなかった。
「ははは。すみません。姫が思っているよりも、割と賢いっすよ」
軽口を叩いていたデュークは彼が起き上がり形勢が悪いとみたのか、さっさと逃げ去っていくルイ様一行を追い掛けて、簡単に昏倒させてしまっていた。
そして、捕らえられていた私の護衛騎士たちを解放して、彼らと協力して、縄で縛っていた。
ああ……なんだかわからないけれど……助かった……? よね。
私は部屋の中に居たんだけど、部屋の中にある死体が怖くて外で作業していたデュークに近付いた。
「デューク」
「姫。すみません。放って置いてしまって。あそこがとりあえず安全だったもんで。もう安全っすよ。ここは……城から離れた一軒家のようですね」
私も彼に言われて、外を見ていた。今は朝になっているようで、ダムギュア王国の企んだことと言うよりも、個人的な恨みを持つ王太子一人の暴走の結果のようだ。
「……俺は姫のために、自分を抑えられるようになりました。ありがとうございます」
「え? どういうこと?」
私の肩を抱いて、外へと歩きながら、デュークは苦笑した。
「俺は幼い頃から、怒ると手が付けられなくなるんす。けど、今は番と自分が定めた姫を傷付けてしまうことを、本能で恐れるようになりました。だから、もう……大丈夫っす」
「番……? 私って、番なの!?」
「むしろ、なんだと思ってたんすか……」
獣人は番を定めたら、一生番を愛するのだ。それを知っていた私は、こんなにも殺伐とした現場で一人だけ嬉しそうな顔を隠せなかった。




