公爵邸にて
立派な馬車がある時点で、それなりの家だろうとは思っていた。
思っていたがまさか、と思うしかなかった。
少年と従者、護衛、そしてクロエの四名が乗った馬車はかつてクロエが過ごしていた屋敷とは比べ物にならない程の、それこそ城とまではいかずともそれに近いくらい大きな屋敷へと辿り着いていたのである。
クロエがここに来る事など、間違いなくなかったはずだ。
少なくとも学生時代に知り合いだったというわけでもない。
だからこそどうしてここに連れてこられたのかがわからない。
少年がクロエに何か無体を働くつもりがないと言ったところで、一気に安心できなくなった。
何故って仮にここでクロエを殺したとして、この家の人間ならばそれくらいどうとでもできてしまうから。
殺したという事実すら表に出さないようにできる程度の力はある。
クロエが連れてこられた先は、公爵家であった。
突然の来訪者に、しかし公爵家ともなればその程度で驚く事もないのか使用人たちの動きには無駄が一切なかった。
クロエが事情を把握するよりも先にあっという間に応接室へ案内されて、何が何だかわからないうちにテーブルを挟んだ向かいには少年の他に二名が着席しクロエと対面する形になっていた。
「……まずは謝罪を。すまなかったねクロエ嬢。うちの弟が迷惑をかけた」
「ちょっと、それもそうだけどそれよりも先に言うべきことがあるでしょう!?
……あら、ごめんなさい。楽にしてちょうだいね。といっても難しいかしら?」
その言葉に、クロエはどうこたえるのが正しいのか、思い切り戸惑ってしまった。
学生時代であればまだしも、今はもう成人扱いだ。
下手なやらかしをすればその時点で人生が終了すると言ってもいい。
子爵家にいた頃ならまだしも今は平民。
そんなクロエが公爵家の人間と向かい合って話をするなんて、思ってもいなかったのだ。
だからこそ向かいにいる女性に楽にしてと言われても、それを真に受けるのは……と思いながらも、しかしこの場合何が正解になるかもわからない。
「いえ、あの……これは、一体……?」
だがいつまでも困惑してばかりもいられないのも確かで。
三名の様子から少なくともクロエに対して何か――不快なものがあるようには感じられなかったので、意を決してクロエは問いかけた。
「あー……まずは、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。話がきっと進まない。
クロエ嬢、私の事は憶えているだろうか?」
「えぇと……アルベルト・デュッセン公爵令息様……いえ、今は違いますね」
「そうだね、今はもう公爵だ。けれどそこは気にしなくていい」
あぁやっぱり、と内心で思う。
少年に見覚えはないけれど、アルベルトの事は記憶にある。同じ学校に通っていたわけだし、直接関わる事はなかったけれどそれでも彼は目立っていたから。
それは、アルベルトの隣にいる女性もだ。
彼女はアルベルトの婚約者だった。クロエが学校で関わる事はやはりなかったけれど、それでも彼女の周囲にはいつだって大勢の人がいたからこちらもよく知っている。
卒業後に結婚したのだろう。きっと素敵な式だったに違いない、とクロエはどこか現実から逃避するように考えた。
学生時代に接点があったならまだしも、無いのだ。
共通点を述べるのならば、同じ学校に通っていた事と、同年代だという事と、人の形をしている事。
正直そんな共通点なら他に沢山いるので、アルベルトやシャルロットがあえてクロエとこうして対面しているという事態になるのはやはりどう考えてもおかしい。
「きみには感謝している」
「え……?」
今は平民になってしまったクロエと、今は公爵になったアルベルト。
どう考えたって接点なんてできるはずもない。
学生時代だって、もしかしたらすれ違うくらいはしたかもしれないけれど、例えば授業中に討論をしたりだとか、例えば休み時間に談笑したりだとか、そういう事はなかった相手。
平民になった今では、それこそ雲の上の存在と言ったって言いすぎなどではない相手。
そんなアルベルトに感謝している、と言われてもクロエは何を言われたのか理解できなかった。
「まずこちら、弟のセオドアなんだが……見覚えは?」
「いえ、なかったと、思いますが……」
自分をここに連れてきた相手。
どうしてここに連れてこられたのかもわからない。どうして、とむしろこちらから聞きたいくらいであった。
「あのねぇ、あれから四年も経過してるのよ?
当時のままならともかく、あの頃から成長したのだからわからなくたって仕方ないわ」
呆れたような声を出したのは、シャルロットだ。
そう言われてアルベルトもようやく気付いたのだろう。
「あぁ、そうか……そうだった」
毎日見ているから見慣れてしまって気付かなかった、と小声で呟いたのがクロエの耳にも届いたが、クロエはそれを聞かなかった事にした。
「実は四年前、クロエ嬢が事故にあった日。
あの時、弟はきみに助けられた」
「えっ……?」
そう言われて思わずクロエはセオドアを見る。
事故に遭った日の事は、憶えていると言えば憶えているけれど、憶えていないと言えば憶えていない。
事故に遭ったという部分はハッキリと憶えている。あの日は確か雨上がりで道がちょっと濡れていて。
そして馬が――
確か、近くに男の子が二人いて、それで……
といった感じで起きた出来事は憶えているけれど、しかしクロエが馬から助けようとした男の子のうちの一人がセオドアだと言われても、助けたかもしれない男の子の顔などさっぱり憶えていなかった。
こんな顔だったかしら……? いえ、違うような、でも、そうかもしれない……そんな風にとてもあやふやだった。
起きた事実だけは憶えていても、当時の光景を全て鮮明に思い出せと言われれば無理。
それについてはクロエもきっぱりと言えるだろう。
そんな風に当時の出来事を思い返して表情を変化させていくクロエを、アルベルトとシャルロットは微苦笑を浮かべて見ていた。
「憶えていなくても仕方のない事よ。だってあれからもう四年も経っているのだから。
セオドアはあれから背だって伸びたし声も変わったもの」
「あ……」
そう言われて、そこでようやくクロエも気付いた。
記憶にないのは確かに仕方ないかもしれない。
だって、もっと小さかった気がするし、あの事故が起きる前に聞いた声はもっと高かったような気がしている。
今ここで紹介されたセオドアは背も高くなっていて、だからこそ余計に見覚えがなくて。
それだけならまだしも、話しかけられここに連れてこられた時の声だって、これっぽっちも聞き覚えがなかったのだ。けれどもクロエだってわかっている。
女性と違って男性は成長する時に声変わりだってするし、背だって女の子と違ってうんと伸びる人もいるのだという事を。
改めてその情報を頭においてセオドアを見れば、確かになんとなく当時の面影があるような気がしてきた。
……いやどうだろう? やっぱり気のせいかもしれない。
クロエにとってはあの後すぐに意識を失って、気付いたら四年が経過していたのだ。
一瞬だけ見かけた程度の少年の事など細部にわたって憶えていられるはずがなかった。
ともあれクロエがどうしてここに連れてこられたのか、というのは理解できた。
お礼だけを伝えるだけなら、わざわざ連れてこなくたって良かったのに……とも。
「それでは、もう帰ってもよろしいでしょうか……?」
まだ大丈夫だけど、買い物に行く途中で連れてこられたのでこれから戻って買い物を済ませて、家に帰ってご飯を作って、と考えるとポーラが帰って来るまで結構ギリギリの時間になりそうだ。
なので、これ以上ここに滞在していると帰る時間は必然的に遅くなるし、そうなるともしポーラが家に帰ってきた時にクロエがいなかったら、無駄に心配させてしまうかもしれない。
「その、もう少しだけ」
「失礼します! 到着しました!」
アルベルトがクロエを留めようとした矢先、使用人の一人が滑り込むようにしてやって来た。
公爵家の使用人としてはあるまじき姿ではあるけれど、それだけ緊急のものなのだろう。
端的に伝えた使用人に、アルベルトは「そうか」とどこか喜色を浮かべ立ち上がる。
「すまない、本当にもう少しだけ待ってほしい」
「貴方にとっても悪い話じゃないから、お願いよ、あと少しだけ付き合ってちょうだい」
アルベルトとシャルロットにそう言われてしまえば、平民であるクロエには逆らえるはずもなく。
立ち上がろうと浮かせていた腰を、クロエは仕方なしに下ろした。体力がある程度戻りつつあるとはいっても、流石に腰を中途半端に浮かせたままの体勢を維持し続けるのは厳しかったのだ。
耳を澄ませば、周囲が途端慌ただしくなったかのようにいくつかの音が聞こえてくる。
今しがたここに駆け込んできた使用人は、到着したと言っていた。
誰かがここに来た、というのはクロエでも理解できる。
来客が来たのであれば、それこそクロエがいつまでもここにいる必要はないのではと思うのだが、しかしまだいてほしいと言われてしまえばどうしようもない。
大体、ここから元いた場所まで戻るとなると結構な距離だ。
馬車だからそこそこ短い時間で公爵邸に到着したけれど、しかし徒歩であったなら戻るだけでも結構な時間になってしまう。だからこそ、帰っていいなら早くしないと帰りが思った以上に遅くなるな……とクロエは思っているのだが。
そんなクロエの困りごとなど、当然周囲は知る由もない。
若干表情に困ったわ……といったものが浮かんでいたとしても、クロエが困っている内容まで明確に知られているわけでもないのだ。
到着したという来客を迎えに行ったアルベルトと、この場で留まっているシャルロット。
ついでにセオドアもいるけれど、しかしクロエはこの二人と親しいわけでもない。
セオドアに至ってはほぼ初対面だし、シャルロットだって名前だけは聞いていたが直接関わりを持っていたかと言われれば否。
何かを話そうにも、共通の話題といったものが浮かばないし、何より今は平民であるクロエが気軽に声をかけていい相手でもない、と思ってしまえば。
出された紅茶をそっと飲んでこの場をやり過ごすのが、クロエにできた精いっぱいだった。
そうしてクロエにとってはとても長く感じられた時間は、終わりを迎える。
実際そこまで長くはなかった時間で、迎えに出たアルベルトと到着したという誰かがこちらにやってきているであろう足音が聞こえて。
その誰かとクロエを引き合わせようとしているのだな、とは流石に気付く。
けれど、では一体誰を……? と疑問に思った矢先に。
「クロエ」
「…………カイン、様」
どこか切羽詰まったかのような顔をしてやってきた男の名を、クロエは戸惑いつつも口にした。
「あ、一応俺もいるよー」
どこか気まずそうに、カインの後ろからひょっこりと姿を見せたのはキースだ。
それから、そのすぐ近くにもう二人程クロエにとってあまり見覚えのない男性がいて。
「えぇっと……これは……?」
一気に男性の人口密度が高くなりましたわね……と思いながら、縋るような目を思わずシャルロットへ向ける。クロエから助けを求めるような視線を向けられたシャルロットはというと。
「……仮にも病み上がりの令嬢相手に大勢で押し掛けるんじゃありません。むさ苦しい」
ほら散った散った、とばかりに席を立ったシャルロットはクロエを庇うように移動する。
仮でもなんでもなくまさに公爵夫人である女性にそんな事をさせてしまった、という怖れはあるが、それよりも――
「あの、私既に令嬢では……」
「クロエさんも、一度黙って」
「はい」
もう平民なのだから令嬢と言うのは違うだろう、と思っての事だったが有無を言わさぬ雰囲気に圧されて、クロエは言われるままに口をきゅっと閉じる事しかできなかった。




