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第89話『なりたいもの』

「本当に屋上にいるなんて……紗菜ちゃんの予想通りだなぁ」


「紗菜? あいつに何言われたんだ?」


 感心したように呟いた澄乃の言葉に、雄一は疑問の声を上げる。


 この場所にいることは紗菜どころか誰にも伝えていないし、もっと言えば部活に所属していない雄一が校舎に残っているかも分からないはずだ。


「下駄箱に靴は残ってたから、まだ学校にいることは確実。それで――」


 中途半端なところで言葉を区切った澄乃は、少し言いづらそうに目を泳がせる。


「近頃何か悩んでるみたいだから……そ、そういう人は高いところにいるんじゃないかーって……」


「言ってくれやがる……」


 さすがの洞察力。何とかと煙は高いところが好き、ということだろう。まぁ実際、うじうじ一人悩んでいる自分はそう言えなくもないかもしれない。


「で、何でここに来たんだ?」


 場所が突き止められた謎は分かったとして(別に隠したわけでもないが)、今度は澄乃が自分の下に出向いてきた理由が気になる。用があるならメッセージを送るなりすればいいだろうに。


 雄一の隣で同じようにフェンスに背中を預けた澄乃は、視線を横にずらして雄一を見る。身長差のせいでやや上目遣いになり、肩口でさらりと流れた銀髪が夕日を浴びてほのかに輝いた。


「相談に乗れないかなって」


「相談? ……誰の?」


「もちろん雄くんの。一昨日ぐらいからだったかな? 何だか悩んでるみたいな感じだったから、直接話を聞いてみたかったの」


「…………」


 極力澄乃の前では平静を保っていたつもりだが、どうやら最初から看破されてしまっていたらしい。


「バレないようにしてたつもりなんだけどなぁ」


「んー……まぁ、確かにあからさまなところは無かったかな。ただやっぱり違和感というか、何となく変なところがあるって思ったの」


「……そっか」


 澄乃は自分の些細な変化に気付いてくれた。つまりそれだけ雄一のことを見ていてくれたということであり、その事実が胸の内を温かい感情で満たしてくれる。


 つくづく、自分は彼女に心底惚れているらしい。


「それで……何かあったの? 私で良ければ力になるよ?」


 透き通った藍色の瞳が雄一を捉える。向けられた表情は真剣そのものであり、澄乃が真摯に自分を案じてくれていることが伝わってきて、どうしようもなく嬉しくなる。


 やっぱり澄乃のことが好きで……だからこそ、彼女の選択を邪魔したくない。そう思った雄一は静かに口を開いた。


「色々と考え事だよ。……澄乃を、どう送り出そうかってな」


「……え?」


 大きくてつぶらな瞳がさらに大きく見開かれる中、雄一は夕暮れの空を見上げながら言葉を続ける。彼女の顔を見てると、泣いてしまいそうな気がした。


「いつかは知らないけど、近い内に霞さんのところに帰るんだろ? ならせめて……送別会ぐらいは開きたいからさ」


「……雄くん」


「あ、プレゼントも送りたいな。何が良い? デカいパンダのぬいぐるみとか――」


「雄くんっ!」


 ぐいっと、腕を強く引かれる。その勢いに釣られて澄乃の方を見ると、そこには――


「ごめん、それ何の話……?」


 えっらい困惑顔で首を傾げる澄乃がいた。


「…………ぇ?」


 互いに顔を見合わせたまま固まる二人。校庭から聞こえた野球の打球音が、カキンとどこか間抜けに響いた。












 二人の間に流れる静寂。実際はほんの数瞬だろうに、体感時間は随分と長いように思えた。


「……霞さんのところに帰るんじゃないのか?」


「……帰らないよ?」


「…………」


「…………」


「…………えっ!?」


「いや、えって言われても……!?」


 口をあんぐりと開ける雄一に対して、澄乃はどう反応したらいいのか分からないように眉をひそめる。


「そ、そもそも、何でそんなことになってるの? 私そんなこと言った覚え無いはずだけど………」


「いや、だって一昨日、霞さんと電話してる時に言ってただろ……!? 『またそっちで』って……」


「一昨日? ……あっ、あの時の聞いてたの?」


「あ……悪い、盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど……たまたま通りかかって」


「あー……それでそういう……」


 状況を整理するように唇に指を添えた澄乃は、やがて納得がいったのか二、三度頷く。そして、ため息を一つ。


「とりあえず宣言しておくけど、帰ったりしません。まだこっちの高校に通うつもり」


「そうだったのか……。ちょっと待て、俺どこから勘違いしてるんだ?」


「大体は予想通りだと思うよ? 実際あの時、お母さんから『またこっちで一緒に暮らさない?』って言われたし。でも……断っちゃった」


 小さく舌を出して、悪戯を働いた幼い子供のように笑う澄乃。可愛らしい姿に胸が高鳴るが、澄乃の発言には少し不安を覚えてしまう。


「大丈夫なのか? 霞さんとの仲というか、そういうのは……」


「大丈夫大丈夫。ちゃんと話し合って決めたことだし……これからだって、お母さんとは何度もお話できる。雄くんのおかげ。だから心配しないで」


 そう言って笑う澄乃の頬が緩やかに弛む。一片の曇りもない晴れやかな笑顔が夕日に照らされ、より一層その魅力を増していた。


 話し合って決めたことなら何も問題は無い。それに正直、雄一としては諸手を挙げて喜びたいぐらいの結果だ。


 それにしても。


「どうして断ったんだ?」


 結果は喜ばしいが、やはり疑問は残る。澄乃は雄一の問いに顔を伏せると、その頬が微かに朱色に染まり出した。


「……まぁ、もう高二の夏休みも終わったわけだし、受験のこととか考えると、今からまた転校っていうのはバタバタしちゃいそうだから。それに……こっちで色々とやりたいこともある、から」


「そっか。何だ、やりたいことって?」


「えっと……やりたいことと言いますか……なりたいものと言いいますか……」


「……澄乃?」


 妙に歯切れの悪い受け答えだった。不思議に思って相手の顔を覗き込もうとすると、フェンスから勢いをつけて離れた澄乃は雄一へ背中を向ける。


「ねぇ、雄くん。花火大会の日の約束覚えてる? 伝えたいことがあるって話」


「……ああ、もちろん」


 微妙にタイミングが合わなかったし、ここ数日は自分がこんな調子だから聞くこともしなかったが、約束自体は片時も忘れていない。


 ゆっくりと振り返る澄乃。制服のスカートの裾をぎゅっと掴んだ手が目に入り、彼女が緊張しているのが手に取るように分かる。


 夕焼けの逆光を浴びて、ほのかなオレンジに輝く少女の輪郭。そして彼女の頬を彩るのは、どの色にも負けないぐらい鮮やかな紅。潤んだ藍色の瞳は真っ直ぐに雄一に向けられている。


「――英河、雄一くん」


 形の良い小振りな唇から雄一の名前が紡がれる。それがとても大事なものであるかのように、そっと丁寧に。


 まさかと、一つの考えが雄一の頭に浮かぶ。


 もしかしてという期待と、そんな上手く事が運ぶわけがないという躊躇。雄一の中で二つがせめぎ合って動けなくなる中、彼女は静寂を破った。


「私は、あなたが好きです――」

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