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第87話『母と娘(後編)』

「どうして、そんな顔してるの?」


 澄乃のその言葉で、霞もようやく自分がどんな顔をしているかに気付いたのだろう。一瞬の硬直の後、霞は緩慢な動作で自分自身の顔に手を伸ばしてその輪郭をなぞる。最初は澄乃を嘲るように歪んでいた表情も、いまや必死に苦痛を堪えているようにしか見えなかった。


「どうして、そんな辛そうなの?」


 澄乃はもう一度、より意味合いを明確にして尋ねる。霞は慌てたように顔を逸らした。


「それはっ……辛いからに決まっているでしょう。本心を隠して聞こえの良いことばかり言う人との会話なんて………辛くて鬱陶しい、だけよ……。本当なら顔も見たくないわ……」


「そっか……。……お母さんは、私のこと嫌い?」


「……ええ……ええ、そうよ。あなたみたいに自分勝手な人なんて――」


「じゃあ私の目を見て言って」


 ビクリと、霞の両肩が跳ね上がる。


「そんな風に目を逸らさないで、私のことちゃんと見て言ってよ。それがお母さんの本心だって言うなら、もちろんできるでしょ?」


 こちらに恐る恐る振り向いた霞の顔には、先ほど以上の動揺が見て取れた。澄乃はもう逃がさないと言わんばかりに霞の手を取ると、身を乗り出して顔を近付ける。


「言ってよ、私のこと嫌いだって。……そしたら、私は諦めるから」


 ――本当は嫌だ。実の母から面と向かって「嫌い」だなんて言われたくないし、霞との復縁だって諦めたくなどない。けれどそれが母の本心で、本当の本当に(・・・・・・)自分と会いたくないと言うのなら、澄乃は受け入れるつもりだ。


 澄乃の願いは、決して母に無理を強いてまで叶えるものではない。母にとっての最良の選択を取るためならば、自分は迷わず“別れ”を選ぼう。


 でも、そうでないのなら。


「ほら、早く言ってよ。私のこと嫌いなんでしょ? 一言そう言ってくれれば、私は諦めて帰るんだよ? お母さんもそれが良いんでしょ?」


「……っ」


 唇をわななかせる霞に、澄乃の心が悲鳴を上げる。まるで母を断崖絶壁に追い詰めているような気分だった。けどここで退いたらきっとその本心は聞けない気がするから、霞以上に震えそうな声を必死に抑えて問い続ける。


 霞が身体を退こうとしたら、手を引っ張って引き戻す。それこそ全力で振り払わなければならないほどの力を込めて、澄乃は霞を捕らえて離さない。


 やがて、顔を伏せた霞は絞り出すように声を漏らした。


「どうして……あなたはそこまで、私に構おうとするの……」


「……さっき伝えた通りだよ。私はお母さんと、また普通の親子に――」


「戻れるわけないでしょ――ッ!」


 突如響いた悲鳴のような叫びに、澄乃は息を呑む。


「戻れるわけ……ないわ……! だって私は、ずっとあなたに辛い想いをさせていたのよ……? 勝さんが死んでから、ずっとあなたに支えられてばかりで……。なのにそれに報いるどころか……最悪な形で返してしまった……」


 澄乃に手を上げた日のことを思い出しているのか、繋がったままの手から身体の震えが伝わってる。


「その後だってそう。あなたが謝ろうとしていたのは分かっていたのに……また手を上げるかもしれないことが怖くて、向き合うことをしなかった……。臆病で最低な人間なのよ、私は。そんな私が……今さら人の親に戻れるわけがない……っ! そんなことが……許されるわけないでしょ……っ!」 


「お母さん……」


 もはや霞の身体の震えは隠し切れないほどになっていた。吐き出される感情の奔流は留まることを知らず、伏せられたままの顔からは今にも涙が零れ落ちてきそう。なのに少しでもそれを押しとどめようと、必死にもがき続けているようだった。


 ――その言葉に、その姿に、澄乃は覚えがあった。


 まだ記憶に新しい、ついこの前……そう、あの時だ。今の母はあの時(・・・)の自分に似ている。


 雄一に過去を打ち明け、彼に優しく抱き締められた時のこと。自分も母と同じようなことを言っていた。


 間違いを犯した。あまつさえ逃げた。だから許されない。そんな資格が無い。責任と罪悪感で雁字搦がんじがらめになって、その場から一歩も動けなくなっていた。状況こそ違えど、母が感じているものは澄乃と一緒だ。


 場違いなのは分かっているけれど、そのことが――少し嬉しかった。


(やっぱり……親子なんだ、私たち……)


 思考回路が似ている。正確には自分が母に似たのかもしれないけど、二人の間には切っても切れない一線があるのだと思えた。


 今の母に……何と声をかければいいだろうか。そんな疑問が浮かんだけれど、答えはすぐに出てくれた。


 あの時の“彼”がそうしてくれたように――澄乃もそっと、その言葉を口にする。


「私は許すよ」


 ……ゆっくりと、母の視線が自分に向いた。目尻に溜まった溢れ出しそうな雫を、澄乃は優しく指先で拭き取る。母がずっと抱えていたものを拭い去るように。


「いっぱい悩んで、いっぱい苦しんでたんでしょ……? ならきっと、もうそれでいいんだよ」


 傷付けたのは澄乃だって同じだ。母だけが悪いわけじゃない。


 お互い傷付いて、お互い悩んで、お互い苦しんで。そのことを認め合っているのなら、終わりを決めるのはやっぱり自分たちだ。責任とか資格とか、最初からそんなものはどうだっていい。


「お母さん」


 母のことを真っ直ぐに見て、澄乃は伝える。


「私は、お母さんを許す」


 まずは自分が。


「私の方こそ、お母さんにひどいこと言って、ごめんなさい……っ」


 そして――


「もし許してもらえるなら……お母さんとまた……普通の親子に、戻りたい……っ!」


 三度目の正直ともいえる願いと共に、澄乃の頬を涙が伝った。最初は一筋、でもその数はすぐに増えていき、落ちた先のシーツや衣服に微かな跡を残していく。


 その一粒が霞の手に落ちた瞬間、まるで伝播したかのように、霞の目からも涙が零れ出した。娘の後を追いかけ、そしてすぐにそれを追い越し、幾重もの涙が我先にと溢れては頬を伝い落ちていく。


 視界が涙で滲んで母が見えなくなりそうで、澄乃が思わず目元を拭おうとしたその時、不意に澄乃の身体は強い力に引かれた。そうして迎え入れられた先は――暖かい母の腕の中。


「ごめんね……ごめんね、澄乃……っ! ずっと我慢させて……本当にごめんね……っ!」


 霞の口から紡がれるのは、確かな謝罪の言葉。それは他でもない、澄乃の想いが通じたことの証明だった。


「澄乃……私も、あなたを許すわ……。だから、戻りましょう……普通の、親子に」


「……っ、お母、さん……お母さん……っ!」


 久しぶりに抱かれた母の腕の中は本当に心地良くて、これ以上はないと思っていた涙がさらに溢れ出てくる。


 苦しみ、悲しみ、後悔――その全てを洗い流すかのように、母と娘は泣き続ける。


 穏やかな夕暮れの光が、そんな二人を優しく包んでいた。












 病院一階待合室のソファに座る雄一は、じっと澄乃が帰ってくるのを待っていた。ちらりと壁掛け時計に視線を送るが、時間はさっきっ確認した時から十分も経っていない。気晴らしにスマホを取り出しても何かする気になれず、ただひたすらに待ち続けるだけ。


 そんな中、不意に思い付いた雄一はスマホの画像アプリを起動する。画面に表示させたのは、いつかの遊園地で撮った男女のツーショット写真。


 赤面して狼狽えている自分と、満面の笑顔を浮かべた澄乃。


 ほんの一月前のはずなのに、どこか遠い日の出来事のように感じてしまう。


 どうかまた、澄乃がこんな笑顔を取り戻せることを。


「……っ」


 自分でも分からない、形容しがたい“何か”を雄一は感じた。引かれるように顔を向けた先には――こちらへ歩いてくる一人の少女。相手も雄一の存在に気付いたようで、方向を微調整して歩み寄ってくる。


 しきりに目元を拭っていて、それは雄一のそばまで辿り着いても同じ。雄一が最悪の可能性を思い浮かべた矢先、少女の手が顔から離れた。


 目元を真っ赤に腫れ、瞳は少ししょぼしょぼとしていて、頬には微かな涙の跡。


 けれど――


「ただいま、雄くん」


 彼女が、白取澄乃がそこに浮かべたのは、青く晴れ渡る大空のような――最高の笑顔だった。


「おかえり、澄乃」

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