第80話『実家にて』
約二時間の新幹線、それからまた電車を乗り継いだ結果、澄乃の実家であるファミリーマンションに辿り着いたのは十八時を回ったぐらいだった。空には闇が広がりつつあり、じきに一面が黒に染まることだろう。
心までは暗くないようにと今一度気を引き締め、雄一は前を歩く澄乃に続いてエレベーターに乗り込んだ。それとなく横に視線をやると、傍らの澄乃は唇を引き結んでじっとしている。近付きつつある母親との対面に緊張しているのだろう。
少しでも楽になればとその華奢な肩を優しく叩くと、澄乃はわずかに目を見開いた後にぎこちない笑みを浮かべた。
エレベーターが目的の階につき、二人は踏み出す。三部屋ほど過ぎたところで、澄乃は一枚の扉の前で足を止めた。
表札の名前は――白取。ここが、澄乃の実家だ。
「…………」
澄乃の緊張がピークに達しているのは、目に見えて明らかだった。唇を何度も舌で湿らせていて、呼吸のリズムも少し早い。藍色の瞳は辛さに耐えかねて閉じそうになるけれど……それでも澄乃は、一瞬たりとも目を逸らそうとはしなかった。
ここまで来たら、もう言葉は不要だ。雄一は黙って澄乃の傍に寄り添い、気持ちの準備が整うのを待つ。やがて二、三度深呼吸を行った澄乃はゆっくりと手を伸ばし……表札の下のインターホンのボタンを押した。
扉の向こうからピンポーンと控えめな音が聴こえ、二人はその場で静かに待つ。しかし、十秒ほど待ってもスピーカーからは何の反応も無かった。
「……?」
わずかに眉を顰めた澄乃がもう一度ボタンを押してみるのだが……先程と同様にチャイム音がなるだけで、一向に反応は返ってこない。
「留守……か?」
雄一が思い付く可能性を挙げてみれば、澄乃は微妙に煮え切らない様子で首を捻る。
「どうだろう。この時間なら家にいるとは思ったんだけど……。ちょっと待って、今カギ出すから」
そう言って澄乃がバッグの中を探り始めると――隣の部屋の扉が開いた。
「あれ? ひょっとして……澄乃ちゃん?」
意図して出会したわけではないようで、部屋の中から現れた人物はこちらを――正確には澄乃の顔を見て、驚いたように目を見開いた。
穏やかな雰囲気を感じさせる初老の女性。中学時代の澄乃の面倒を見てくれた夫婦の片割れだろうと、雄一は何となくピンときた。
「あ、ご無沙汰してます。お元気ですか?」
「ええ。澄乃ちゃんこそ元気そうで安心したわ。一人暮らし始めて、もう半年以上よね? しばらく見ない間にまた一段と綺麗になったわねー」
「ありがとうございます。おばさんが色々と教えてくれたお陰ですよ」
雄一の予想は的中していたようで、澄乃と女性は仲睦まじく会話を始めた。時期はそう長くなかったとは言え、澄乃にとってはもう一人の母親のような人だ。本当の母親との現状についてまでは伝えていないらしいが、一人暮らしを始めた澄乃のことを色々と心配してくれたのだろう。
「ところで、母は出掛けてるんでしょうか? この時間なら、普段は家にいると思ったんですけど……」
色々と積もる話はあるだろうけど、今は澄乃の母親の件の方が優先度は高い。その辺りは澄乃自身も分かっているようで、適度なところで会話を切り上げた。
「え……澄乃ちゃん、何も聞いてないの?」
「はい? ええ、特には……」
きょとんと首を傾げる澄乃に、女性はどこか面を喰らった表情を浮かべる。やがて女性が伝えた内容に――澄乃はもちろん、雄一も大きく目を見開くこととなった。
「――入院!?」




