第54話『楽園への切符』
八月に入って一週目、雄一は新しいトレーニングシューズを買いに『イヌイスポーツ』を訪れていた。見た目より機能性と履き心地を重視するタイプなので、積んである商品から目当てのサイズを抜き出して試着していく。
何足かのシューズの吟味を終えたところで、そんな雄一に一人の人物が近付いた。
「どうだい雄一くん、お気に召す商品はあったかな?」
乾啓太郎――雅人の父親であり、この『イヌイスポーツ』の店長だ。年齢は四十台半ばであるが、息子同様の整った顔立ちからは未だ若々しさを感じさせる。身体も全体的に引き締まっていて、Tシャツの袖口から伸びる太い二の腕からも日頃のトレーニングを欠かしていないことが窺えた。
曰く、「だらしない体つきのオジサンから勧められた商品なんて、買う気がしないだろう?」とのこと。スポーツショップの店員の鑑のような人だ。
満遍なく筋肉のついた理想の体躯は、密かに雄一の目標だったりする。
「そうですね。とりあえずこの二足で迷ってる感じなんですけど……」
「お、さすがお目が高い。どっちも最近入荷したばかりの商品でね、値段の割にしっかりした造りだからおススメだよ」
「あ、そうなんですか。んー……どっちにするかな……」
「まぁ、ゆっくり選んでくれ。あ、これ今度入荷予定のエナジードリンクなんだけど、ちょっと飲んでみるかい? できれば感想も貰えるとありがたい」
「どもっす。頂きます」
啓太郎から渡されたのは、バーコードの部分に試供品と銘打たれた缶ジュースだった。礼を言って受け取りさっそくプルタブを開けると、カシュッと炭酸の抜ける軽快な音がした。
「ところで雄一くん、最近どうなんだい?」
「どう、と言いますと? 別に問題なく過ごしてますけど……」
この前風邪を引いたばかりだけど、と心の中で付け加えながら、缶の中身に口をつける。
「またまたー。聞いたよ? ――可愛い彼女ができたらしいじゃないか」
盛大に吹き出した。
雄一の口から飛び出た黄色の液体が、細かい飛沫となって周囲に霧散する。
「うわっ、吐くほどマズかったのかい?」
「ゲホッ、ゴホッ……! すんません、そうじゃなくて……!」
即座に差し出されたタオルで口許を拭いつつ、何やら聞き捨てならない発言をした啓太郎を涙目で睨む。
「彼女って、一体どこ情報ですかそれ……!?」
「え、ウチの雅人からだけど?」
「あの野郎……!」
雅人に恨み節を吐く。部活で不在じゃなければ、とりあえず一発お見舞いしていたところだ。
「いやほら、この前雄一くんが店にやって来た時、雅人と一緒に髪をイジッていただろう? 雄一くんにしては珍しいなと思って雅人に理由を訊いてみたら、一人の女の子のためだって言われてね」
「ぐっ……地味に間違ってない……!」
悔しいことに、雅人が伝えた内容自体は正しいものだった。とはいえ、ほぼ確実に誤解を与えるような物言いをわざとしていたとも思われる。
「てっきり雄一くんに彼女ができたかと思ったんだけど……違うのかい?」
「違いますよ! 俺と白取はそういうんじゃ……」
「そうそう、その白取さんだ。何でもずいぶんと綺麗な娘らしいじゃないか。写真とか無いのかい? オジサンちょっと興味あるんだけど……いや、変な意味じゃなくてね」
「写真なんて――無いですよ」
嘘である。
雄一のスマホの中には、先日のテーマ―パークで撮った澄乃とのツーショット写真がしっかり保存されていた。遊んだ日の帰り道に「英河くんもどうぞ」と澄乃から送られてきたものであり、見返すだけで色々と恥ずかしい想いが蘇る一枚であったが、保存しないという選択肢も存在しなかった。
もちろん、誰かに見せる気など一切無い。顔を真っ赤にして見るからに狼狽えている自分を晒すのはもちろん嫌だし、隣に映る澄乃も……何というか、一人占めしたい魅力があるのだ。我ながら独占欲が強いとは承知しているが、どうにもこの考えだけは曲げようとは思えなかった。
雄一の嘘を素直に受け取ってくれたのか、啓太郎は「それは残念」と肩を竦めた。
「まぁ、勝手な話だとは思うんだけどね……実のところオジサン、雄一くんにはちょっと期待しているんだよ」
「期待……ですか?」
「うん。雄一くんに彼女ができれば、雅人もそれに触発されて、恋愛に本腰を入れるようにならないかってね」
「あぁ、なるほど」
イケメンでスポーツマンの雅人は当然女子からの人気は高い。しかし本人は今のところ部活のテニスに重きを置いており、そういったアプローチは断っているとのことだ。そのストイックな一面も人気の一つらしいが。
「仮に俺に彼女ができたとしても、雅人は変わんないと思いますよ? その分テニスに打ち込んでるわけですし、本人も満足してるんだったらそれでいいんじゃないですか?」
「もちろん、現状がダメだなんて言うつもりはないよ。夢中になれるものがあるのは大いに結構さ。ただ年頃の息子を持つ身としてはねぇ……そろそろ恋愛の一つぐらいは経験して欲しいと思うのさ」
啓太郎がどこか懐かしむように目を細める。
「男なんて単純な生き物でね、好きな娘のためなら、いくらでも頑張れるものなのさ。これからもテニスに打ち込むにしても、原動力の一つとして経験しておいて損はないよ」
「そういうもの、ですか」
「そういうものだよ。これ、オジサンの経験談でもあるから」
ニヤリと笑う啓太郎。どうやら彼は彼で、色々と濃い恋愛模様を繰り広げてきたらしい。
「というわけで、雄一くんも頑張りたまえ。オジサンで良ければ相談に乗るよ?」
「だからそういうんじゃないですって……。まぁ、もしもの時はお願いします」
理由はどうあれ親身になってくれてるのは間違いない。無下に断るのも失礼だと思ったので、雄一は素直に頭を下げておく。啓太郎も満足したように頷いてくれた。
「それで、どっちを買うかは決まったかい?」
「そうですね……じゃあ、こっちの方でお願いします」
会話中もシューズの試着は続けており、満足のいったところで片方の箱を選んで啓太郎に渡す。そのままレジへ移動して会計へ。
「毎度あり。お会計は税込みで4,389円になります」
「これでお願いします」
財布から五千円札を取り出して啓太郎に差し出す。慣れた手つきでレジを操作した啓太郎からお釣りを貰うと、彼はレジの下でゴソゴソと何かの準備を始めた。
「何してるんですか?」
「今キャンペーン中でね、三千円以上買ったお客さんにくじを引いてもらってるんだよ。結構良い景品もあるから雄一くんもどうだい?」
啓太郎がそう言ってレジの下から取り出したのは、回すとガラガラ鳴る木製の抽選器だ。「お言葉に甘えて」と手を伸ばし、雄一は一定のリズムで抽選器のハンドルを回す。
ややあってから抽選器の口から放り出されたのは――金色の玉。
「おおー、金賞大当たり! 雄一くん持ってるねー!」
「マジですか。で、金賞の景品って?」
「えーっと、ちょっと待ってね。金賞は……」
またもやレジの下を覗き込む啓太郎。ラミネートされたA4サイズの紙を取り出しかと思うと、急にその表情が楽しさを帯びたものに変わった。
「雄一くん、先に言っておくんだけど……オジサン何も仕組んでないからね? これはただの偶然だよ?」
「何ですか急に」
そんなに変な景品なのだろうか。地味に戦々恐々している雄一に対して、さらに口の端を吊り上げた啓太郎が紙を裏返した。その動きによって、景品の内容を印刷した面が雄一の目前に晒される。
「おめでとう。一大プールリゾート――『サマーシャングリラ』のペアチケットに当選だ」
「…………え?」
まるで“誰か”を誘えと――どこにいるとも知れないお節介な神様から、そう言われたような気がした。




