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第49話『不運と踊る日』

 デート(仮)の翌日。目覚ましが鳴るよりも早く身体を起こした雄一は、やけにのっそりとした動作でベッドから起き上がった。サイドテーブルの引き出しを開けて幅二センチ、長さ十四センチほどの細長い電子機器を取り出すと、銀色に色付いたその先端を脇に挟む。


 その体勢を維持したまま窓に近付いてカーテンを開き、今まで遮られていた陽の光を部屋に取り入れた。差し込む日差しは強い。今日も今日とて快晴であることを物語っている。


 窓を開けて少しベランダに踏み出した雄一は目をすがめて空を見上げた。


 晴れ晴れとした綺麗な青空。


 不規則に揺れる視界。


 肌を撫でるそよ風。


 なんだかだるくて重い自分の身体。


 これから遊びに行くのか元気にはしゃぐ子供達の声。


 ガンガンと慢性的な痛みを訴えてくる頭部。


 脇に挟んだ細長い物体がピピッと電子音を鳴らしたところで、手に取って結果を確認する。


 ――『37.6℃』。


 一般的に体温計と呼称される電子機器のモニターにはそんな数字がデジタル表示されていて、二、三度瞬きしてその表示に間違いがないことを確認すると、雄一はその場に力無く座り込んだ。


(完っ全に風邪引いたぁー……)


 重々しいため息が漏れる。


 身体の異変に気が付いたのは明け方ぐらいだった。ふと目が覚めてみると、微妙に身体がだるい。ただの一過性のものだろうと高を括ってそのまま布団の中でじっとしていたのだが、外が明るくになるにつれて倦怠感が全身に伝播していく。ついでに頭痛やら節々の痛みやらも飛び入り参加してきたようで、気付いた頃には紛うことなき病人に成り下がっていた。そんな状態でまともに寝付けるわけもなく、結局目覚ましよりも前に起きる羽目になってしまったわけだ。


 原因は……まぁ、考えるまでもなく昨日湖に落ちたことで確定だろう。


 上の方は早々に着替えたとはいえ、下に関しては結局家に帰るまで濡れたままだったのだ。いくらタオルで拭ったとしても十分でなく、それによる影響が今になって色濃く反映されてしまったらしい。


(やっぱしっかり湯舟に浸かるべきだったか……)


 昨日は色々と精神的に疲弊した――無論、良い意味ではあるのだが――日だったので、風呂の準備をするのが面倒で適当にシャワーで済ませてしまった。夏だしそこまで冷えることはないだろうと思ってこのザマである。


 その辺りは澄乃も忠告してくれたのに、情けないったらありゃしない。せっかくの親切なアドバイスをふいにしてしまった。


 雄一が自己嫌悪に陥っている中、サイドテーブル上で充電ケーブルに繋がれたスマホが二回連続で鳴る。それがメッセージアプリの通知音だと気付いてスマホを手に取ると……雄一の頬がひくっと引き攣った。


 何を隠そう、送信相手がちょうど今申し訳ない気持ち抱いてしまった少女――澄乃だったからである。


『おはよう! しつこいかとも思ったけど、体調は大丈夫?』


 昨日も見た心配そうなパンダのスタンプも添えられている。


 ……なんてタイムリーな話題だろう。


 いや、それよりもどう返事をすべきか……?


 普段だったら素直に自分の体調を告白してもいいところだが、今回の原因は昨日の一件にある。もし責任感の強い澄乃がそれを知れば、『私の帽子を取ろうとしたから……』と罪悪感を覚えることは想像に難くないだろう。


 あくまで自分勝手で行動したと思っている身としては、要らぬ心配を澄乃にかけさせたくはない。


 しばし悩んだ後、『大丈夫だ。心配してくれてありがとう』と返事を送った雄一は額に手をやってため息を吐いた。


 嘘をついた分、逆にこっちの罪悪感が半端ない。


 再びの自己嫌悪に苛まれていると、スマホからまた通知音が。


 ――『良かったー!』と笑うパンダスタンプが、異様に心に突き刺さった。











 昼頃に雄一は出かけることにした。理由は近所のスーパーに出向くためだ。


 不運なことに今日はかかりつけの病院が定休日で、とりあえずは市販の薬で様子を見るしかない。ストックしていたスポーツドリンクやゼリー飲料で食事は済ませたのだが、これまたタイミングが悪くストックが底を尽いてしまったのだ。


 最近消費したばっかりでそもそもの残量が少なく、その内買い足せばいいかと思って放置していたのが仇になった。


 常備していた市販薬は朝・夕・晩の三回。昼の分も飲もうにも何か腹に入れてからでないと効果が薄く、必然的に消化に良い物の買い出しを余儀なくされたわけである。


 一応米ぐらいなら残っているのだが、さすがに自炊を行う気力は無い。


(一人暮らしの何が辛いってこういうところだよなぁ……)


 体調がどれほど悪かろうと、身の回りの世話は自分自身で何とかしなければならない。家族なりに助けを求めるのも一つの手だが、風邪程度で新幹線一時間ほどの距離を呼びつけるわけにもいかないだろう。


 何より不摂生とまでは言わなくとも、自らの油断が招いた体調不良だ。これも一つの戒めと思って乗り切るしかない。


 マスクを付けた気怠い身体に鞭を打って、雄一はマンションのエントランスから蒸し暑い外へと繰り出した。実はコンビニの方が近くにあるのだが、色々買い込むことを考えたらスーパーの方が安上がりだ。こんな時でも節約の意識は忘れようとしない自分に苦笑しつつ、スーパーへの道のりを歩き続けた。


 通常なら十分もかからない距離にある駅近くのスーパーに辿り着いた雄一を、店内の冷房が暖かく(つめたく)迎え入れてくれる。いつもなら爽快感を覚えるところだが、風邪気味の身体にとってはあまり良いものではない。


 目当てのものを買ってさっさと帰ろうと決めて、カゴを片手に店内を回る。


 スポーツドリンクのペットボトル、ゼリー飲料、レトルトのお粥などを続々とカゴの中に入れていき、ついでに栄養ドリンクの類も買っておこうと思った――その時だった。


「あれ、英河くん……?」


 背後からかけられた聞き覚えのある声。“彼女”の声は耳に心地良い透き通った音色だというのに、今この状況においては、ある種死刑宣告めいた響きを感じずにはいられない。


 錆び付いたロボットよろしくギギギ……と振り向いた雄一は、一縷の望みをかけて人違いであってくれと願うのだが……生憎と神が微笑むことはない。


 代わりに――女神なら目の前にいた。


 よりにもよって今一番会いたくない人物――白取澄乃の姿を正しく認識した雄一は、心の中で『最悪だ……』と呟いた。

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