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本殿の大門を勢いよくくぐり抜け、五の姫は両手を高々と上げて叫んだ。
「完・全・復・活・よ!」
以前よりも一回り以上幼くなった容姿に、背後に控える従者たちが袖で目元を拭う。そんな彼女たちの気配に振り返りがてらギロリと睨み、両手を腰に当てて、キンキンと声を張り上げた。
「何よぅその顔は! 哀れむんじゃないわよ! ちょぉっとちっちゃくなったくらいが何だって言うのよぉ!」
き、と本殿の奥の奥を睨み据える。
「北は私のものなのよぉ! あぁんなしょっぼい当代に、任せておけるわけないじゃないっ!」
暴れてやるんだからぁ! 月白の髪を振り乱して吼えたその時、その頭がスパン、と叩かれた。
「相変わらず、元気の良ろしいお子様ねぇ」
「う、うるさ」
頭を両手で押さえ振り向き反論しかけて、五の姫はパカ、とその口を大きく開けた。上から下までまじまじと見つめ、ぽつりと一言。
「四の姫、何か、老けた?」
途端扇子が閃き、五の姫は今度は額を押さえて悲鳴を上げた。彼女の従者たちが慌てふためき、かたや四の姫の従者たちは皆ここぞとばかりに泣き崩れる。
「おいたわしや。姫様は何一つなさっておらぬのに」
「当代にそないなものをつけられて」
「おいたわしや」
涙目になりながらよくよく見れば、四の姫の首に継ぎ目のない白銀の輪が嵌められていた。
「私は、何も、しておりませんのよ?」
目尻と眉間の皺を更に深めて、人間ならば十分に中年と言える年頃と化した四の姫はぶつくさと言う。
「当代がかつて虜になったお方が、とても魅力的な殿方だったから、西に来られるのならちょぉっと挨拶を差し上げようかと思っただけですのに」
代替わりをした3日後、急に当代に呼ばれたと思ったら突然これを嵌められた。それはもう、こちらに有無を言わせぬ力であり、速さだった。首元からしゅうしゅうと力が抜けていくのに気づき、普段の冷静さを半ばかなぐり捨てて問いただした。対する当代の反応はひどく素っ気ない。
『その胸に、手を当てて、考えて』
傷1つない珠のような両の手に、みるみる皺が生まれていく。ふと当代の横、きらりと光る何かが見えた。氷でできた球体から、馴染んだ気配がする。
『返して、ほしい?』
その球を撫でながら、彼女は淡々と問う。その黄金の瞳はどこまでも冷え切っていた。
『それをつけている限り、あなたの力は一定量、ずっとここに溜まり続ける』
あの内気で目立たず何の魅力も取り柄もないような小娘が、今、神気だけで四の姫を圧倒している。その事実に、肌が粟立った。
『返して欲しければ、あなたの得意な策略でも、力技でも。私は、全部、見ているから』
先代に似た先見の瞳を前に、彼女はただ唇を噛んだ。
それから何年経っても、あの球体に触れるどころか、見つけることすらできない。
「私よりひどいじゃないのよぉ」
自業自得ね。自分のことは棚に上げしみじみ頷いた五の姫の額に、扇子の角が思い切り突き刺さった。
「大門が騒がしいな」
本殿の廊下から本日開門した大鳥居を眺め、二の姫が腕を組む。隣に並んだ三の姫が、煩わしげにため息をついた。
「本日より、かつての後継候補は皆登殿できるようになりましたので」
「私もやっと南に集中できるよ」
むき出しの肩を軽く回す。当代と分担しながら、ここしばらく北と南とを往復する冬が続いた。正直もうこりごりである。
「当代はどうしている?」
「早々に、人界に降りていかれました」
今頃中央は初雪に沸いているに違いない。あるいは準備が間に合わず悲鳴をあげているか。人間の情状を全く酌量しないのが神である。それが、いくら人間に詳しい当代であっても。
「ずいぶんと、落ち着かれました」
隣でポツリと呟いた三の姫は、おそらく今一番当代と話をする。
「以前は時折、ふとうち沈んだような顔をされておりましたけれど」
その表情は、二の姫も数えるほどだが見たことがある。胸の辺りを押さえて静かに目を伏せる、その様子を。あらゆる雪神に指示を飛ばし、目を配るその陰で、たった1人で小さく蹲り眠ることがあることも、彼女より聞き及んでいた。
「貴殿が補佐役で良かったと心から思うよ。私ではまた逆鱗に触れかねないからな」
三の姫だけは当代が「第一位」であった頃から、彼女のことを気に掛けていた。落ち着いて思慮深く、先代の意図をよく汲めていた三の姫だ。今のこの立ち位置は実に的確だった。おそらく、先代から何か言われていたのだろう。
二の姫はそっと腰に手を当てた。そこには、当代から"預かっている"太刀が、瑠璃色の鞘に納まって吊り下げてある。
『私に何か異変が起きたら。私が刹梛伎としての道を外しかけたら。不意討ちでも何でも良い。これで殺して』
代替わりから3日後、扉の向こうから帰ってきた当代を出迎えた矢先のことだった。静かな声音と共に差し出されたのがこの太刀だった。凪いだ黄金の瞳をしばし見据えて、二の姫はただ一言、「心得た」と告げて受け取った。あれからずいぶんと経つが、幸い鯉口を切ろうかと思った瞬間は1度もない。
そういえば、と二の姫は目を瞬かせた。
「先程、妙なものを見た」
「妙、な?」
「あぁ。あの男もまた、随分と思い切った決断をしたものだ」
床を擦る音が、真白な大扉の前で止まる。その先は、歴代の刹梛伎にしか入れぬ聖域。今は銀の錠前がしっかりと何人の侵入を阻んでいる。その前に腰を下ろし、男は深々と頭を垂れた。
「ご無沙汰をしております、先代」
すぐに顔を上げ、立ち上がる。こうしないと、以前のように怒られるような気がしていた。
「長らくご挨拶できず、申し訳ございませんでした。ようやく決断をいたしまして。このような姿で当代にお仕えしていくことといたしました」
もう完全に元の姿には戻れない。雪の繭に包まれた時、彼もまた、そう悟っていた。雪化してしまった部分は戻らない。残った身体をどうするか。命の流出が止まり安定し、神気が十分に回復するのを待ちながら、雪の繭の中でずっと、彼は考え続けていた。
己が主のために、消えてなくなるはずだった。彼女に命を吸い尽くされることも覚悟の上。彼女の礎となるのならば本望だと思っていた。けれど、何の因果か ー否、あの青年のせいで、思いがけず今もこうして存在している。ならば、もしも傍に仕えることが赦されるのならば。これからも従者であり続けることができるのならば。当代になった彼女の後ろに、どのような姿で控えるべきなのだろうか。
もう元のような体格には恵まれない。なれるとしたら子どもの姿。しかし、それでは威厳がなく、何かあったときに主の盾にはなれない。朝議のような場で筆を執るのは、補佐となった他の姫たちとなるだろう。これまでのように自分が代理となって動くことはほとんどなくなるに違いない。
ならば、自分がとるべき姿は。
「今朝繭から出まして、当代にご挨拶差し上げました。……なかなか、気に入っていただけたように思います」
青みがかった白銀の体躯。ふっさりとした長い尾。太くしなやかな四肢。鋭い耳に、突き出した鼻。開けた口からは鋭い牙が覗く。その中で、深い藍色の瞳が、そこに映る情が、彼であることを容易く理解させた。
「おそらく先代の記憶をご覧になったのでしょう。責められることも、任を解かれることも、ありませんでした」
あるいは、「彼」が何か言ったか。それを知る術は、もはや彼にはない。
『ごめんなさい、凍夜』
狼の姿で畏まった従者の首を抱きしめて、彼女はポツリと零した。
『これまで、たくさん、ありがとう。……もう、大丈夫だから。これまでみたいに、甘えたりしないから』
鼻先を寄せると、首に回した腕の力が少しだけ強まった。
『相変わらず、凍夜は少し冷たい。……ふさふさして、気持ち良い』
「……あの子猫に対抗するつもりはありませんが。これから多くの神々を相手にしていく当代にとって、こういう存在は、いるのではないかと思いまして」
きっと今頃、この扉の向こうで、先代が腹を抱えて笑っているに違いない。
従者はもう一度深々と叩頭し、爪を鳴らしながら踵を返した。




