9-3
穏やかに降っていた雪が突如その姿を変えた。鋭利な刃の群れとなり、当代の周囲に集う。
「行け」
太刀を薙いだその剣圧に乗り、数多の雪刃が襲い来る。咄嗟に膝下の雪に手を当てて編み上げ、即席の盾で凌いだ。銃弾でも撃ち込まれているかのような衝撃が、盾を通して彼女を襲う。不意に空を裂く甲高い音が耳を叩き、転がるように盾から離れたその刹那、盾の中央から浅葱色の刃が突き出た。
「は!」
粉々に砕けた盾の向こう、当代が無造作に刃を振るって立っていた。
「弱いの」
空いた左手が翻るなり、砕けた雪が見る間に1つの大きな槍となる。手が振り下ろされるなり、放射線を描きながら凄まじい速度で落下してきた。氷雪の盾を軌道の先に複数展開させながら、まろぶように駆けて逃げる。その盾を全て打ち壊しなおも勢い衰えず、槍は雪上に突き刺さり爆散した。風圧が雪崩を伴い押し寄せ、彼女を跳ね飛ばす。高く飛んだ身体は受け身を取る間もなく雪に叩きつけられ、2度ほど跳ね転がった。雪に塗れボロ雑巾のように蹲る。その身体に影が差した。
「守るばかりでは生きられぬぞ。少しは反撃せぬか。情けない」
武器なら持っておろう。そう言われて初めて、一時的に帯に差したままだった拳銃を思い出す。けれど。
「も、使え、ない」
先程他の雪神たちに向けた牽制とは訳が違う。これは解放された自分が己の従者を瀕死に追いやった銃。その時は彼が止めてくれた。けれど、今は。
「制御なんて、できない」
「ならば死ぬか」
間髪を入れずに険しい問いがぶつけられる。
「仮に他の者が次代となったとして、誰もぬしを制御できぬ。できぬままぬしは荒神となり、神と人との調和を乱すじゃろう。でなければ未だ制御の効くうちにと、他の姫たちの手にかかり早晩死ぬだけじゃ」
拳銃を握りすらせず震える彼女を、当代は失望の目で見下ろした。
「それとも、死にたいか。童の後を追いたいか」
ひく、と喉が鳴る。この身体の中にいるはずなのに、彼の気配は依然欠片ほども感じられない。ただぽっかりと闇が口を開けて待ち伏せているばかり。
不意に恐ろしい予感が彼女を抱き込んだ。もしや彼は、その闇に呑まれたのではないだろうか。この身に巣くう漆黒の自分が、真実食い尽くしたのではないだろうか。
「私が、殺した」
見開いた瞳から涙が溢れ、次々に結晶となって頬を滑る。こんなことなら。こんなことになるならば。途方もない虚無感と後悔が押し寄せる。そんなにも危ういこの身ならば、いつ闇が暴れ出したとして、もう誰にも制御できないならば。
『俺が、あんたの中で、その暴走を制御する』
そう言ってくれた彼ですら、最早この身にいないのならば。いっそ、もう、このまま。
「……ほんに、呆れ果てた娘じゃの」
微動だにせず横たわる彼女の耳を、当代の声が打ち据えた。
「ぬしは、ならば、凍夜の決死の覚悟も、あの童の命魂を賭した願いも、全てを無駄にするのじゃな」
とんだ無駄死じゃの。
その一言が彼女を殴りつけ、ズタズタに切り裂いた。後悔、悲嘆、呵責、失意、憤怒、あらゆる負の感情の坩堝に突き落とされもみくちゃにされる。
『……助けたの、迷惑だった?』
『助けない方が、良かった?』
かつて病室でした問いに、彼は何て答えたんだっけ。もう、思い出せない。
ぷつり、と、糸が切れた音がした。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
暗闇に優しく抱き留められ、沈んでいく。頬を優しく撫でた漆黒の自分は、口元を歪ませ囁いた。
ヨウコソ。コウタイノジカンダヨ。
ダイジョウブ。スベテノコトカラ、カイホウシテアゲル。
突如目を見開いた後継から、当代は反射的に飛びすさり離れていた。直後鋭い音が数発響き、まさに先程までいた場所に氷雪が突き刺さる。ゆらりと立ち上がった彼女は当代を見据え、ゆっくりと手にした銃を持ち上げた。情のない顔。何も映さない瞳。ただ口元だけを歪に持ち上げ、対峙する。
「……さて、ここからじゃの」
いつになく真剣な眼差しで豹変した後継を睨み、やおら左上から右下へと太刀を振り下ろす。触れた雪が鉛のように硬化し矢のように降り注いだ。彼女が袖を振りくるりと回転する。触れた雪が尽くその鉛雪を受け止め包む。回転の勢いのままに漆黒の銃より撃ち放たれた雪弾は、倍の大きさに膨らんだその数多の鉛雪を導き、当代に襲いかかった。
「ふ!」
風雪の盾でそれらを全て弾いた直後、今度は別方向から氷雪の弾が飛んでくる。そちらは太刀で防ぎ、上空から突進してきた吹雪の螺旋を、雪で組み上げた巨大な手で掴み粉砕する。足下から鳴動を感じて宙に舞ったその直後、雪中から巨大な針が何本も突き出した。逆に足場にしながらなおも高く飛び上がったその先で、ひらり銀の蝶が舞う。
「!」
当代よりもなお高く、鋭利な氷の爪を持つ雪の手を振りかざし、白藍の瞳が見下ろしていた。勢いよく振り下ろされたそれはたちどころに当代の身体を捕らえ、そのまま地へと叩きつける。浅葱色の太刀が彼方に飛んだ。雪上に磔にされた当代の眉間に、無機質な銃口が押し当てられた。
幾千もの白樺と、歴代の刹梛伎たちの記憶が見守る中、狩った者と狩られた者、双方の視線が交差する。ことここに至っても頬1つ動かさない後継の顔をまじまじと眺めて、当代は深いため息を吐いた。
「やはり勝てぬな」
引き金に掛けた人差し指に力がこもる。
「じゃがな、美祐月」
意にも介さず、その者の名を呼ぶ。
「ぬしのその目は、一体なんじゃ?」
これまで何一つ映さなかった瞳に、僅か一筋情が走っていた。
「何故そのような目をする。ぬしがいつまでもそうしてめそめそと目と耳とを塞いでいるから、気づかぬのじゃろうが」
右手を伸ばし、銃を握る手を掴んだ。引き金を引こうと力が入ったその刹那。
「仕方がない。手を貸してやろう」
当代の神気が全心身を駆け抜け、暗闇の底で蹲る彼女の意識をサッと照らした。きらきらと輝く雪の結晶が艶やかな両腕を形づくり、力なき腕を掴んで起き上がらせる。
『ちゃんと見ろ。聞け。この不良娘』
結晶の波動が導くその先で目にしたのは、満月色の小さな炎。トクン、トクンと、鼓動を奏でているかのように燃えて辺りを照らしている。おそるおそる近寄って、その馴染んだ気配に息を呑んだ。口元を押さえた両手が震える。見開いた瞳から雪の結晶がほろほろと絶え間なく落ちていく。震えの止まない腕を伸ばし、おそるおそる指先で触れてみた、その瞬間。
愛しい声が、届いた。




