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廊下を幾度か曲がり、本殿の奥の奥へと歩いて行く。やがて絢爛に装飾を施した大きな扉に行き着いた。真白に薄く銀箔を塗し、大小に六花を象った氷色の磨り硝子が填め込まれている。風雪をモチーフに彫り込まれた流線を、両脇に垂れ下がる紺や空色の組紐がなぞる。当代が銀の錠に触れると、ひとりでにカチリと音を立てて外れた。
「ここから先は、刹梛伎とその後継しか入れぬ場所じゃ」
自ずから開いた扉を当代に続いて越えたところで、後継は思わず足を止めた。
静謐にして神聖な空気が満ちる、白銀の世界。小さな社の境内がすっぽり入るほどの空間を、白樺の梢が円形にぐるりと囲む。その中央に、扉と同じ六花を一輪象った氷像が、雪もかぶらず厳かに佇んでいた。当代と共に近づき、肩ほどの高さのそれをまじまじと見つめる。
「これは、記憶じゃ」
「き、おく……?」
「雪神が八百万神の1柱として顕現してからのち、全7代の刹梛伎たち、そして8代目である我が何を見、何を聞き、何を為してきたか。その証がここにある。故に刹梛伎にしか触れることを許されぬ」
当代が指の先でついと触れると、それは薄ら光を放ち、当代の周りをしゅるりと回った。
「……なぜ、私をここに」
「これこそが、ぬしが最も聞きたかったことの答えとなるからじゃ」
「……は?」
怪訝そうな顔を向ける後継の鼻先に、当代の淡く光る指が1本立てられる。
「我が何故、凍夜に童の命を奪わせたか。ぬしに結果の見えた賭けを持ちかけ、童と凍夜を駒としたか。何故あのような茶番劇を許したか。ぬしの問いとはさしずめ、そのようなものであろう」
押し黙った後継の、瞳だけが険阻さを増していく。彼の「当代刹梛伎と賭けをした」という台詞。従者の「自分も当代の賭けの駒」という台詞。従者が用い当代が携える浅葱色の神剣。全てを操り奪い望みのままに道を敷いてきた、我こそがその黒幕なのだと、当代は今確かに彼女に告げた。ならば。
「答えて、ください。何故晃琉は、死ななければならなかったのか。何故凍夜は、自分を捨てるようなことをしたのか。一体……何のために!」
悲鳴が白樺を震わせ溶けていく。その一欠片まで消え去るのを待って、当代はひょい、と肩を竦めて見せた。
「簡単なことじゃ。ぬしを、後継とするため」
「そんなの、望んでなかった!!」
激情が清浄な空気を震わせる。
「これまで、ずっと、次代の座なんて、いらなかった! 望んでなんかこなかった! 私なんかが継げるわけがない! 誰もがよくわかっている! 当代だって、わかっているでしょう!?」
「あぁ、わかっておるとも。ぬしが最も次代に適しているということも、ぬしが何故そこまで忌避するのかということも」
全然わかっていない。更に荒げかけた声音を一瞥で遮って、当代はゆるりと彼女に向き直った。「ぬしの力を奪っておったのは、我じゃ。ぬしが雪神として命魂を奪うことを恐れる心を持つよう仕向けたのも、我じゃ」
唐突に告げられた真実に、不意を突かれ言葉を封じられる。その隙に、当代の手が伸びてきた。
「そうしなければ、ぬしは今頃、荒神と化し成敗されておったからの」
目元を覆われたその瞬間、まぶたの裏で光が弾けた。情景が、流れ込む。
人界のどこかの上空を、人間でいう5歳ほどの小さな娘が1人、ふわふわと飛んでいる。彼女が飛ぶ傍から雪がこんこんと地上へ降り注ぎ、瞬く間に屋根を、庭を、歩道を、白く染めていく。白銀の髪に青の曼珠沙華を咲かせ、白藍の瞳は時折何かを探すように左右に振れた。あちこちの建物の頂上にちょこんと降り立ち、首を傾げてまた飛び立つ。
やがて目当てのものを見つけたかのように唐突に軌道を変え、降り立ったのは町で一番高い場所。町のシンボルである展望台の上から辺りをぐるり見回すと、彼女は表情のない顔で1つ頷いた。小さな両腕を大きく広げ、すう、と深く息を吸い込む。口の端だけが歪に持ち上げられた。
ふ、と小さな息が吐き出された、刹那。町を猛烈な吹雪が襲った。慌てふためく人間たちをうち倒し、街路樹を薙ぎ倒し、古民家の屋根を吹き飛ばす。停車した車がふわりと浮くなり宙を飛び、ビルに追突してひしゃげ硝子の雨を降らせる。その硝子が吹雪に舞いあげられ、あらゆるモノを貫き突き刺さる。一寸先も見えない真白の世界。そのあちこちから、命が、魂がふわりと浮き上がり、展望台へと吸い寄せられていく。
『美祐月! 何をしておる!』
突如響いた声と共に、猛威を振るった吹雪が一瞬で掻き消えた。彼女の背後に、息を切らした当代が降り立つ。眉間に深い皺を刻み、雪に荒らされ半壊した町を一望して深々と息を吐く。
『答えよ。何故このようなことをした』
詰問に、変えるような顔色を1つも持たない少女は淡々と答えた。
『今年は雪神が人間にシレンを与えるのでしょう。ちょうど、持て余していたのです。この力を解放するのは、とても気分が良い。強くもなれる』
だから、最も効率的かつ効果的に、最も命が集まる場所を選んだ。シレンも与えられて一石二鳥ではないか。
眉1つ動かさずに曰った少女を前に、当代は言葉を失った。胸に渦巻くその情を悟られないように瞳を閉じることしばし。再び開いた眼からは、強い決断の色が見えた。
『ぬしの力は確かに強い。流石は我が定めた後継。しかし、ただ退屈に任せて衝動のままに人界を荒らす。それは荒神の行いじゃ。調和を乱しかねぬ、危険極まりない力の扱い方じゃ。故に、到底看過できぬ』
何か答えるその前に手が伸びて、少女の目を塞ぐ。封印が施され、少女はその場にくたりと倒れた。その小さな身体を抱き上げて展望台の屋根を蹴る。高く結わえた紫銀の髪が、宙を舞う。
『この娘が成長するまでに、己でその力を、衝動を、制御できるようにせねばならぬ。今から少しずつ、手を打っておかねばならぬの』
未だ町を漂う命魂をいくつか回収し、何故かくっついてきた魂もそのまま連れて、当代は遥か山中の大鳥居へと滑空した。
「……故に、我はぬしに恐怖心を植え付けた。むやみに命魂を奪うことの罪深さをその心に刻み込んだ。それからは、ぬしの記憶の通りじゃ」
大槌で殴られたように上体を大きく揺らし、後継がその場に膝をついた。胸を押さえ目を見開いて、荒い呼吸を繰り返す。心の奥底に潜み漂う、淀んだ暗闇の正体。ふとした瞬間に歪んだ笑みを浮かべて手を伸ばし、自分と取って代わろうとした存在。それが今、幼き日の自分自身の姿へと変わっていく。
「昨年の試練を覚えておるか。我と凍夜とぬしが向かった、あの集落を」
肩が跳ねて、強張った顔が当代を見上げる。
「忘れておるじゃろう。あの時何があったか。あの集落がどうなったか」
「い、や」
拒む手をくぐり抜けて再び額に触れられた瞬間、彼女は細い悲鳴を上げた。流れ込んできた記憶が、情景が、暗闇を揺さぶり哄笑する。少女を象っていた漆黒が、どろりと伸びて今の自分に変化した。その手が招くようにこちらに伸びてくる。その手前で、ぱちり、と何かに跳ね返され、無念とばかりに戻っていく。当代の手がようやく額から離された。
「そのように我が押さえてきたがの。ぬしの力は増すばかりじゃ。流石は我が後継。一度解放されれば、もう我では押さえておけぬ。故に凍夜と、丁度現れたあの童を使ったのじゃよ。我に変わり、ぬしを制御する存在としての」
凍夜は従者の鏡であったし、童も思いの外物分かりの良いやつじゃったわ。楽しげにすら聞こえるその声に言葉に、思考が凍った。
『まるで皆が口を噤む。過保護もここまでくると冷酷だな』
二の姫の声が蘇る。真実、自分は何も知らされていなかったのだ。隠されたその裏で、次々に手が打たれ、役割が与えられ、消えていった。本当に、何と冷酷なのだろう。
「さて、美祐月」
氷像から手を離すと、当代は無造作に雪を踏み彼女から離れていく。
「代々刹梛伎は最も力の強い雪神が継ぐ。当代よりも力の強い者が現れれば、そやつが次代刹梛伎となる。ぬしは我を越えた。故にぬしが次代じゃ」
十数mほど離れたところで向き直り、突然のことに理解が追いついていない様子の後継に、一転冷えた眼差しを向けた。
「じゃが、それを制御できねば早晩荒神となるばかり。ならば、制御できなくなる前に、我が手を下す」
「当、代」
鍔が鞘から離れ、浅葱色の太刀が顕現する。
「嫌ならば生き残れ。生き残り我が跡を継げ。それ以外、ぬしに選択肢はない」
滑らかな動作で抜き去り構え、当代は高らかに告げた。
「これより、継承の儀を行う! 我は第8代刹梛伎、真名を氷織! 我が後継・美祐月を第9代刹梛伎としてここに推挙し、この身をもってその器を示す!」




