9 継承 ―ユキケシキ―
賭けを、しよう。
その言葉に、生気を失った瞳に僅か光が灯る。亡き想い人の家の前で蹲る後継を傲然と見下ろして、当代は口元に笑みを閃かせた。
「ぬしがここを動かぬと言うのなら、望み通りにしてやろう。人の身に堕ち、あの童をずっと待つが良い」
ただしそれでは賭けにならない。ぼんやりとこちらを見上げる彼女の顔に、薄ら怪訝の念が浮かぶ。
「じゃが、ぬしは刹梛伎の後継。このまま記憶を失い二度と神界に戻らぬようでは困る」
だから、神の掟で記憶を奪われるその前に、この当代刹梛伎が、その記憶を預かる。
「ないものを奪うことはできぬからのう。ぬしは神であった間の記憶を失い、あの童のことも忘れ、ただの人間の女子としてここで暮らすが良い」
そして、彼女の眼前に指1本を突き立てた。
「1年じゃ。1年の間にもう一度童と逢い、その名を呼ぶことが出来れば。あらゆる記憶を我のもとから取り戻すことができれば、あとはぬしの好きにするが良い」
もし、できなければ。わずかに唇が動いて、音なき声を発する。
「その時は、迎えを寄こす故、大人しく神界に戻ってくるのじゃな。そして、我の言うとおりに動いてもらおう」
どうする? そう尋ねゆるりと差し出した手を、彼女はぼんやりと見つめた。固く膝を抱いていた手が、ゆっくりと解けていく。ぎこちなく伸ばされ、寸前で一度躊躇い、しかししっかりと当代の手に乗せられる。
「乗ったな」
冴え冴えとした笑みが当代の口元を飾った。
脇息にもたれていた身体を、ゆるりと起こす。鳥居の方から、閉門の地鳴りがこの本殿の奥まで聞こえてきた。神気を研ぎ澄ませ、その向こうの様子を探る。ちょうど、賭けの結果が、そしてその結末が出揃ったところだ。そういえば、先程ひどく弱々しい気配が鳥居を抜け、後継の住居の方へ飛んでいった。まさか、彼が生き残るとは思わなかったが。
「なかなか。これはぬしの圧勝ではないかのう、童よ」
くつくつと声を喉で転がしながら、緩慢に膝を立て、重たげに立ち上がる。真っ白な衣を羽織り、雪を象った装飾紐で留め、薄紫がかった銀の髪を結わえ流して、当代は本殿の廊下から雪神の住まう地を、そしてその先の大鳥居を見下ろす。重低音を轟かせ門が閉まっていく、その刹那。
しゃり。甲高い音が僅かに混ざった。これまでにない神気が、鳥居を越えてこの雪神の世界に降り立つ。
しゃりしゃり、さりさり。
はるか遠く微かに聞こえるその音は、まるで何かを引きずっているよう。その正体を認めるなり、当代はいっそ凄絶とも言えるほどの歓喜の笑みを、その頬に乗せた。
「と、当代! 一の姫が!」
悲鳴混じりの足音が慌ただしく近付いてくるその奥で、鳥居の門が地を轟かせながら閉まる。しかし遠目に見えるその影は、まるで意にも介さない様子。だらりと下げた片手に漆黒の拳銃を、もう片方に抜き身の浅葱色の太刀を握り、その切っ先で雪道に筋をつけながら、ゆらりゆらりと歩く。
「帰ってきたな、不良娘」
出て行った頃とは格段に神気の増した後継は、真っ直ぐにこちらに向かっていた。
「一の姫、お待ちあれ!」
「お待ちあれ!」
本殿の大門を複数の雪神の眷属が塞ぐ。
「その太刀と銃をこちらに!」
「こちらに!」
代わる代わるに立ち塞がっては手を出すが、彼女の何の情も映さない一瞥に震え上がって後ろに下がっていく。これが、あの隅で縮こまっていた一の姫かと、慄き柱の陰に隠れる者もいた。放つ神気が1年前とは桁違い。雰囲気も怯えたところなど欠片もなく、無言でこちらを圧倒してくる。殺気すら覚えるそれに、背筋が粟立った。
一体、この1年で何があった。 ー何を、食ったのだ。
なおも勇気を振り絞り追い縋る彼らに、彼女は冷え冷えとした瞳を向けた。ぐ、と詰まったところに、ぴしゃりと言葉を投げつける。
「邪魔、しないで」
反射的に数歩後ろに下がったそれにはもう構わず、本殿の床を踏む。
「ま、待た」
最後の1人が翻った袖をはっしと掴んだ、その瞬間。彼女の手元が閃いた。
「触らないで」
漆黒の銃口が、狙い違わず眉間に押し当てられている。
「離して。それをして良いのは、1人だけ」
銃口が皮膚越しに骨を擦る音がして、その者は瞬時に手を離し、悲鳴を上げて飛びすさった。後はもう、誰も阻む者はいない。
カラカラ、カラカラ。
太刀が床上を擦って跳ね、乾いた音を立てた。まるで骨でも引きずっているかのような音に、黙って見送るばかりの雪神たちは互いの肩を抱き合った。
太刀の音を響かせながら本殿の廊下をゆっくりと歩いて行く。その迷いない足取りに、誰もが行き先を悟り青ざめるも、何も出来ずに見送るばかり。そんな折、ふと、彼女の目の前に影が差した。
「何をするつもりだ」
肩口で切り揃えた藍白の髪が涼やかに揺れる。二の姫が仁王立ちで立ち塞がっていた。
「この先は、当代の御部屋だ。そのような物騒なものを持って、どうする」
後継の瞳が煩わしげに眇められる。
「どいてください」
「断る、と言ったら」
沈黙の下で、視線が激しく切り結ぶ。一歩も引かない彼女を前に、二の姫は内心舌を巻いていた。1年前、突如北の仕事を全て全て押しつけて中央に舞い戻り、人間界に堕とされていた一の姫。軟弱で後継たる威厳の欠片もなく、いつも俯いてばかりだった彼女が、まさか自分の視線に臆することなく応じるとは。一体この1年で何があったのか。何を食らって、帰ってきたのか。
睨み合いの中考察し、ふと、理解した。まじまじとその姿を見つめる。
「貴殿、あの人間を食ったのか」
途端、二の姫の身体が宙を舞った。舞い込んだ突風が氷雪を従え彼女に襲いかかる。すんでのところで飛びすさり、咄嗟に編んだ風雪の盾で防いだ。だが、勢いにじわじわと圧される。力の差に、背筋が冷えた。
「双方、お待ちを!!」
その時、後ろから鋭い声がかかった。衝撃が消えたのを確認して、二の姫も盾を解く。振り返ると、白花の髪を乱し息を切らした三の姫の姿。
「二の姫、挑発はいけないわ」
「事実を問うたまでだ」
「それでもよ」
「そうじゃ。逆鱗の在処を理解せねば、深手を負うぞ」
後ろからひょこりと顔を出した存在に、流石の二の姫もぎょっとして言葉を失った。
「当代!」
呼んできたのか。思わず三の姫に非難の目を向ければ、彼女は静かに首を振った。
「私たちでは、もう」
「こやつの言うとおりじゃ。ぬしが立ち塞がることは容易に想像できたがの、今のあれはぬしでも無理じゃ」
我が後継じゃからの。口元に笑みを乗せ言い放ち、当代は二の姫を抜いて前に出た。殿中が息を潜める中、鋭く光る白藍の瞳と対峙する。
「久しいの、家出娘」
「……当代。聞きたいことが、あります」
「じゃろうのう」
その前に、とゆるりと右手を伸ばすと、当代は人差し指の先でくいくいと誘った。
「その太刀は我があやつに貸したもの。なかなかに貴重なものでの、床掃除には向いておらぬ。返してはくれぬかの」
2柱の姫が固唾を呑む。二の姫が僅かに腰を落として動きに備える。その前で、しかしその太刀はいともあっさりと当代の手の上に乗った。左手を翻すと瞬時に瑠璃色の鞘がそこに現れ、当代はくるりと手上で浅葱の弧を描くと、冴えた音を立ててそれに収める。そして、横を抜けながら己の後継を手招いた。
「来い、美祐月。話をしようではないか」




