8-4
解放された身体を跳ね起こした青年は、すぐさまバランスを失って右に倒れた。
「、こ、の」
上手く動かない左肩を叱咤し、すぐ脇に転がる太刀を左手で掴む。それを杖に膝をつき、よろめきながら立ち上がった。すぐ傍に倒れ伏している男へと歩み寄ると、半分を雪に埋めた顔の横に太刀を突き刺し膝をつく。
「……おい。まだ、死ぬなよ」
喘鳴の影で、薄ら開いた濃藍の瞳がこちらを見上げる。
「あいつのために、あんたは死んじゃいけない。あんたが死ぬのは、今じゃない」
唇が何かを訴えるように動く。知らない振りをして、彼はつい、と視線をあげた。さくさくと雪を踏む音が止まる。目の前に見知った銃が現れた。引き金に白皙の指がかかっている。銃口は、真下。従者の胸を貫く銃創から未だ湧き出る雪の欠片が、次々と螺旋を描いて彼女の腕に絡みつき、吸い込まれるように消えていく。止むことのないそれは、かつて5の姫の力を根こそぎ吸い取ったあの現象を連想させる。
「……美祐月」
己の従者を手に掛けておきながら、彼女の表情はひくりとも動かない。冷めた瞳からは何の感情も読み取れず、ただ足下に転がる存在を眺め、命を吸い取っていくのみ。そして、銃口はまさにその頭部に向けられていた。
左手で太刀に縋りながら、先のない右腕を必死に伸ばす。これが、自分の役目だ。自分の意味だ。決して誰にも代われない。代わるつもりもない。
「やめろ、美祐月」
ほろほろと白金の雫が零れ、従者の欠片と共に螺旋となり彼女に吸い取られていく。構わず銃口の角に腕をあてがい、ゆっくりと持ち上げた。情1つ映さない瞳が、沈黙のうちにそれを見つめる。太刀を支えに立ち上がり、彼女から決して視線を逸らさず、さらに腕を持ち上げて、そして。
「俺は無事だ。これ以上は、あんたが後悔する。戻れなくなる。だから、そこまでだ」
トン、と銃口を自身の胸に当てた。彼女の眉が初めてピクリと動く。胸に銃口を当てたまま、彼は右腕を彼女の方へと伸ばした。その先から依然零れる薄い白金の粒帯が、まるで意思を持ったかのように螺旋を離れる。そして彼女の腕を駆け上がると、慈しむように頬を包んだ。
「戻ってこい、美祐月」
乾いた眼が、傍目にもわかるほど揺らいだ。固く結ばれた唇が、ふるりと震える。頬を包んだ光が彼女の中に消えていく。従者から吸い上げていた命の螺旋が霧散する。力なく下がった手から拳銃が滑り落ちて雪に埋まった。くしゃり、と、顔が歪む。
「晃、琉」
頷いてやると、彼女はその場に力なく座り込んだ。目の前に横たわる桔梗の着物におそるおそる手を伸ばす。
「凍、夜」
指先で触れた耳の端が雪と化し零れて消える。咄嗟に指を引き、彼女は慌ててその顔を見るべく青年の隣に這い寄った。そして悟る。今や銃創だけでなく、従者のそこかしこが雪と変わりつつあった。
「わたしの、せいで」
従者の睫毛が僅か震え、深い藍色が薄く姿を現す。力なく雪を掻いた手を捕らえて握ると、指先からほろほろと雪の粒が転がっていった。カタカタと身体を震わせる彼女に向かって、従者は小さく口の端を持ち上げた。宥めるような瞳に、胸が詰まって言葉を押し潰す。
必死で風雪の檻を解除し駆け出した、その爪先が青年の手から離れた拳銃に引っかかったのを覚えている。咄嗟にそれを拾い上げたことも。従者が太刀を持つ手を高く掲げたところで、視界が黒く塗り潰された。心の奥底から伸びてきた手に腕を強く引かれて、気がつけば闇の濁流へ放り込まれていた。ただ手に残る衝撃と冷たさ、そして否応なしに身体に溶け込んでくる馴染んだ2つの命と魂の波動に、溺れもがきながら慄然とする。その魂の波動がふと調子を変え、名前を呼ぶ声にぐいと腕を掬い上げられて、ようやく戻ってこられたのだ。自分では制御できない力が、自分の大事な存在を死の淵に追いやった。その事実が彼女を打ちのめし、思考を暗く鈍らせる。
「美祐月!」
すぐ隣で名を呼ぶ鋭い声に引き戻される。青年が険しい顔で、彼女の肩を掴んでいた。
「こいつをこのまま、死なせて良いのか」
低く抑えた声が耳を叩く。
「こいつはあんたにとって、大事な右腕なんじゃないのか。ここで死んで、平気なのか」
「……平気なわけ、ない」
いつだって、神界のあらゆる視線や噂から彼女を守ってくれた。過保護なまでに甘やかしてくれた。いつまでもそれではいけないと思いつつ、絶対的に傍にいてくれることに、すっかり甘えきっていた。いつも彼女の意思を守ってくれる、唯一の味方。深い藍の瞳とその身に纏う空気が、冬の凍った夜のように冴え澄んで見えるから、「凍夜」と名付けた。大切な、家族のような存在。
「死んじゃ、嫌だ」
「だったら、何とかしてこの雪化を止めろ。美祐月、こいつが誇る雪神の後継のあんたなら、できるだろう」
彼の手が置かれた肩から、全身へと彼の熱が、力が巡っていく。なおも物言いたげな深い藍色の瞳に深く頷いて、彼女は従者の手を両手でしっかり包んだ。そう、我らは、雪を操る神だ。
「やらなきゃ」
包んだ手を通じて従者の身体に神気を送り、まずは応急処置として、未だ命を噴き続ける銃創の表面を、彼自身から零れた雪で埋めてしまう。次いで風雪でその身体を僅かに持ち上げながら、雪に氷の糸を混ぜ込み、薄い絨毯のような布を作る。もう一欠片の雪の破片も逃がさぬよう、ほつれることのないよう、しかし迅速に白銀の細やかな布を織り上げて、従者を覆うように広げて包んでいく。
彼女の強くしかめた眉が、深く険の走る瞳が、固く結ばれた唇が、その負担を物語る。手を休める余裕も、己の闇に怯える余裕も、自責に苛まれている余裕もない。ただ、肩を支える青年の温い波動だけが、彼女を繋ぎ止め、癒やし、力を与えてくれる。
薄い硝子を仕舞い込むように白銀の包みを閉じていき、あとは顔を、となったとき、従者が僅かに口を開いた。
「す、い、め」
「な、に?」
口元に耳を寄せ、その掠れきった吐息のような声を聞く。
「つよく、なられ、た、」
返事替わりに大きく首を振ると、彼は少し表情を緩めた。それから刹那青年の方に目をやり、ほんの少し顎を引く。その顔を雪の布で包むと、全体が淡く白く光り、折り目のない繭のようなものがふわりと雪風の上に乗った。
雪は吸い、眠らせ、奪う。一方で、雪は留め、保ち、時に育む。冷淡にして冷徹、時に冷酷と呼ばれる雪神ゆえに、滅多に使われることはない。書庫に通う中で身につけた、彼女だから習得できた術。
すい、と指先を動かすと、雪繭は風雪に導かれ鳥居の向こうに消えていった。全身から力が抜けていく。大きなため息が零れた。隣で支えていた青年も、その様子に息を吐く。
「終わった、か」
「……うん」
「助かりそうか?」
「多分、完全に元通りには、ならない。たくさん、命を流してしまったし……私も、吸ってしまったから。残っている分で何をどう補うかは、凍夜の意思次第」
「そうか」
ぽすり、と頭に手が乗った。
「できたな」
労りの声音に、目の奥が熱くなる。
「うん」
「あんたは、奪うだけの神じゃない。俺を助け、あいつを助けた。大丈夫だ」
その言葉が、彼女の中の臆し縮こまっていた自我にほんのり灯りを差し掛ける。
「……大丈夫」
小さく繰り返すと、頭の上の手が2度ほど動いて、離れていった。その手を追いかけるように、振り向く。
「晃琉、ありが」
その視線の先で、彼がゆっくりと雪の中に倒れていった。白銀に抱かれ天を仰ぎ、目を閉じて、ふは、と笑う。
「時間切れだ」
右腕の先と同様に、今や彼の全身から、淡い光が立ち上っていた。




