O7-3
果てのない雪原のような世界を前に、子猫はぽっかりと口を開けた。
「……えーっと。僕は、セン爺のところに向かっていたところだった、はずなんだけど」
額の痛みも目眩もすっかり治まり、身体も軽い。こんなに軽いのは、彼女とまだ何も知らず2人きりで暮らしていた時以来だ。
「ということは、これは、夢かな」
耳を澄ませば雪の囁きすら聞こえそうな静寂の空間に、ただ1匹佇む。四方に目を凝らしてみても、人1人、猫1匹の影すらない。パタン、とひとつ尻尾を振り、耳の裏を後ろ足で掻き、ついでに前足で顔を掃除までして、子猫はようやくため息をついた。
「どうにも、ただの夢じゃなさそうだ」
その時。まるで、「当たり」と言わんばかりに、後ろで猫が鳴いた。驚きと警戒をない交ぜにしながら振り返り、子猫は再びぽかん、と口を開いた。先程まで誰もいなかったその空間に、自分より一回り大きな自分が座っている。
「……え、と、どちらさま」
そっと近寄ると、まるで瓜二つ。前足と尻尾の先の白、満月みたいな目、漆黒の毛並み。どう見ても数年後の自分そのものだ。
「僕は君であり、君じゃない。君の器。君の外側」
そっくりの声で、まるで謎かけのようなことを言う。
「僕の外側? どういうこと?」
「君が君の願いを叶えるために、僕が器になったんだ」
まるで答えになっていない。しかし子猫は追及せずに目を眇めた。
「僕の願いを、君は知っている」
「うん。知っている」
「僕の知らないことも、君は知っている」
「うん。知っている」
「君は、僕の何?」
目の前の大きな自分は、その瞳を懐古に柔らかく細め、ひげをもぐもぐと動かした。
「僕は君の器。君の外側。そして、君の、親友」
くらり、と目眩がした。先程まで羽が生えたように軽かった身体が、鉛を埋め込まれたように沈んでいく。視界の軸をどうにか見定めながら、子猫は喉の奥で唸った。
「僕は、君を知らない」
「うん。それが、約定だから」
「やくじょう?」
「うん。だから、僕が使われた」
「何を言っているのか、わからないんだけど」
今や子猫はうずくまり、依然涼やかに目の前に座する彼を見上げるばかり。そんな子猫に向かって首を伸ばし、黒猫はざらり、と額を舐めた。
「もうすぐ僕の役目は終わり。君は君自身になる。だから、これはさいごのご挨拶」
まるで子猫を慈しむように、あるいは傷ついた友を癒やすように、ゆっくりと毛繕いをして、黒猫は一声にゃぁ、と鳴いた。
「大丈夫だよ。君はちゃんと、彼女に会える。あと少しだけ、僕が手伝うから」
彼の言葉がゆりかごのように子猫を抱え揺れる。目の上ををざらりと舐められたのを合図に、ゆっくりと眠気が意識を包み込む。
「君は、僕の、」
「僕は、君の、親友。君が僕じゃなかった時の、大事な大事な親友」
「しん、ゆう」
「君が君自身になったら、全部わかるよ。でも、もう言葉は交わせないだろうから」
もう半分以上意識が遠のいている子猫の耳に、そっとその黒猫は囁いた。
「さよなら、親友。ありがとう。僕を器にしてくれて。役に立てて嬉しかったよ。さよなら、」
最後のその名を聞く寸前、子猫は雪原から姿を消していた。聞きそびれた名前が空中に霧散する。声音の欠片も消えた頃、黒猫の姿もまた、煙のように消えていた。
カラカラと虚しい音と共に戸が閉まる。この1年と、それからその前の数ヶ月、温かな日々を見守ってきた家が閉じていく。表札の「貴坂」の文字を一撫でして、彼女は重たい息を吐いた。早朝の張り詰めた空気を僅か淀ませ、白いそれは空中へ、気持ちは足下へ落ちていく。
結局、子猫は帰ってこなかった。一昨日の午後から昨日の丸一日、どこを探しても見つからなかった。子猫でなくても良い、この町の猫が1匹でも見つかれば、あるいは。言葉は通じないとわかっていながら、町中を歩き回ったけれど、不思議と見かけることすらできなかった。まるで、町猫ぐるみで子猫を隠しているかのように。
「彼」のことも進捗は思わしくなかった。依然顔も朧気で名前も思い出せない。「彼」の実家は西にあると言っていたが、そのような調子で広い西を探すことは不可能だ。町内に切り替えても、もともと他者との交流がほぼ皆無な彼女に聞き込みは到底できない。
そんな中、唯一話を聞けたのが古書店の老夫婦だった。「彼」が老夫婦と交流があったことを思い出し、まろぶように駆け込んできた彼女に、老夫婦は静かに茶を出した。話せる範囲のことを全て話した彼女の前で互いの顔を見合わせ、その顔に更に深く皺を刻む。
『……みっちゃんが、あの子のことを思い出したい気持ちは、よぉくわかるよ』
ずっと彼女に寄り添ってきた老婦人が、湯飲みを包む手に手を添える。
『でもねぇ、みっちゃん。まだ思い出せていないことが多いということはね。みっちゃんの心が、まだあの子のことを受け止められていないということなのよ。私たちが話せば、それを強引にこじ開けて、押しつけることになってしまう』
隣で、老店主が静かに首肯する。
『私たちは、みっちゃんのことも、あの子のことも、大好きよ。だからこそ、貴女に深い傷を負わせてしまうことが、たまらなく怖いの』
臆病でごめんなさいね、と頭を下げる2人に慌てて手を差し出しながら、彼女は小さく肩を落とした。
『思い出話なら、いくらでもお話ししてあげる。あの子が小さな頃からあの家でお祖父ちゃんお祖母ちゃんと過ごしていた、ほんのささやかな日々の欠片なら』
『……ありがとう、ございます』
行かなければならない場所があるからと謝辞を混ぜて辞退し、入り口まで見送りに出てくれた2人に頭を下げて店を後にする。歩きながら、ぼたぼたとこぼれ落ちる涙をコートの袖で拭った。語ることを避けられた。家にいる彼が語った「彼が帰ってこられない理由」。それにようやく疑問を抱けた。ただ帰れないだけなら、こんなにも労られることはない。もっと、穏やかでない何かが彼に起きたのだ。それが彼女の記憶の欠落にも繋がっている。すべて、子猫の言うとおりだった。
「朔鬼……」
表札を撫でながら唇を噛みしめる彼女の肩に、大きな手がそっと触れる。仰ぎ見れば、真摯にこちらを見つめる青年の姿。大仰に宣言しておきながら、結局この男の隠し事1つ、自分は暴くことができなかった。ただ、嘘の2つ目を見破っただけで。
「行こう。時間がないだろう?」
本当は、まだ「彼」を、子猫を、探していたかった。けれどこれ以上は、雪解けの神の妨げになる。また神の掟に触れ記憶を失ってしまう。今回は、それだけは避けねばならなかった。彼の手に引かれて彼女はその家に背を向ける。なびく髪の毛先から未練が零れて泣いた。
真白な水面を揺蕩っていた意識が、ふと何かに釣り上げられた。薄目を開くと、目の前には灰色の毛並み。
「……セン、爺」
「うむ」
投げ出されていた四足を引き寄せ、力を入れて起き上がる。ふらつく身体を、待機していたらしい2匹がすかさず両脇から支えてくれた。辺りを見回せば、雪の積もらない路地裏の一角に、子猫と知り合いの猫たちが顔を揃えて座っていた。その先頭に静かに座る老猫に、子猫は凪いだ目を向ける。夢から醒めた今、改めて聞きたいことが、ある。
「僕は、一体何?」
この老猫は、ずっと、知っていたはずだ。
「おぬしは、猫の器に宿ったものじゃ」
その身が教えてくれたじゃろう。その言葉に小さく頷く。
「おぬしは約定により猫となった。おぬしに深い由縁のある猫の器を借りた。そしてわしは、わしらは、そのおぬしを預かった。なぜなら」
長毛に覆われた目の奥に、刹那懐古の情が過ぎる。
「おぬしはわしらの良き隣人であったからじゃ」
後ろに並ぶ猫たちが、一斉に鳴く。懐かしさの中に少しだけ痛みを、悼みを感じるその鳴き声。子猫の背中が少し逆立った。
「もともとの僕の器は、どうなったの。約定って、何。僕は、どうしてみゅうの傍にいたの。僕の願いって、何」
問い続けなければ、思考が処理を終えて鳴き喚いてしまいそうだった。額の痛みに身を任せ、再び意識を失ってしまいそうだった。しかし、老猫はそんな悲痛さを静かに受け止めて、そして尻尾を1つ振った。
「それは、約定故にわしらからは告げられぬ。おぬしが思い出さなければならぬ。けれどもなぁ、朔鬼」
老猫に呼ばれたその名が、ひどく懐かしく特別なもののように思えた。
「おぬしがあの雪姫の傍におった理由は、おぬしが違えずずっとその胸に抱えておったはずじゃよ」
ふさふさとした尻尾で優しく額を撫でられる。それが彼女の手を思い出させて、子猫の心に芯を宿す。1つ2つ深呼吸をして、子猫はすっくと老猫の前で背を伸ばした。
「セン爺、行ってくる」
「あぁ。行くがよい、朔鬼。今ならば、まだ間に合う」
その言葉に、刻限を知る。
両脇の猫がそっと身体を離した。いつも何かあると子猫を担いだその2匹に、ゆっくりと頭を垂れる。路地裏を出ると、ぞろぞろと猫たちが後に続く。振り返って彼らを見渡すと、この1年間には到底収まりきれないような懐かしさを覚えた。透けるような笑みを零し、冬空に1つ鳴き声を残して、子猫はくるりと踵を返し、雪道を風の如く駆けだした。
彼女の傍にいた理由なんて、たった1つしかない。
彼女のことが好きで、大好きで、ずっとずっと一緒にいたいと、彼女の力になりたいと、彼女を守りたいと、願っていたから。冬に差し込む日だまりのような、そんな小さな温かさを、柔らかさを、優しさを、絶対に手放したくなかったから。
だから、ずっとずっと傍にいる。例え自分が何であっても― 何に、なっても。
見送る猫たちの視線の先で、子猫の姿が陽炎のように大きく揺れ、消えた。




