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ゆきけしき  作者: 燈真
Oblivion7 刻限―ソノネガイハ―
55/69

O7-2

「あ、猫」

 雪の薄ら積もった塀の上を、斑猫がひょいひょいと尻尾を振りながら滑りもせず歩いている。

「あぁ、あれはわりとよく見る奴だな」

「そうなの?」

「あぁ。この町、結構猫が多くてな。そこの塀の上も、散歩ルートの1つになっているらしい」

 そう言って、青年はふと蜜柑を剥く手を止めた。何かを思案する顔に、向かいに座る彼女は首を傾げる。

「どうか、した?」

「……最近あまりみかけないやつがいてな。もう年寄り猫だから、もしかしたら、と」

 何せ、この雪だからな、とは何気なく言ったことだろうが、彼女を恐縮させるには十分で。悪い、と小さく掛けられた言葉に首を振ると、そっと彼を窺う。

「……探しに、行く?」

「……いや、いい」

 庭を眺めてひょいと肩を軽く竦めた彼の、視線の先。斑猫の後ろをのんびりひょっこり、長毛の灰色猫が歩いて行く。目も口もどこにあるのかわからない、抱き上げればきっともふもふと気持ち良さそうな猫。目で追う彼の表情が、少しだけ柔らかい。

「あの子?」

「あぁ。セン爺って呼んでる」

「せんじい?」

「仙人みたいな爺さん猫だからな」

 猫だから仙猫か、と目を細めて独りごちる彼の横顔をまじまじと見つめる。この顔は、新鮮。

「猫、好き、なんだ」

 確かめるように声をかけると、一瞬、彼の口元がきゅ、と結ばれた。眦が、少し険しさを帯びる。でもそれは、怒りや不快からは少し遠い表情で。

「前、こっそり、飼っていたことがあった」

 庭先よりもっともっと遠くを見つめるような目で、ぽつりとそれを口にする。そんな彼の横に移動して、彼女はそっと肩に頭を乗せた。その上にぽすり、と温かな手が乗って、そのまま彼は言葉を零していった。

「3年くらい前からか、しょっちゅう家の庭に来ていたんだ。義母は嫌がっていたが、察したのかいない時にひょっこり現れて、俺の傍で転がったり丸まったりして、餌を食べて満足したら帰っていった。撫でさせてもくれたし、膝の上にも乗った。良い奴だったよ」

 上から降ってくる彼の声は、懐かしさと穏やかさに包まれていて、どういう存在だったかが一聴でわかる。だから、過去形に含まれる一抹の寒い感情に、胸が痛む。

「半年くらい前、12歳の弟があの銃に興味を持ってな。保管場所を覚えていて、俺のいない隙にこっそり持ち出した。縁側であれこれ弄っているうちに、目の前をアイツが通りかかったんだ。魔が差したってのは、きっとああいうことを言うんだろう」

 連射状態で引き金を引いたからたまらない。額に、目に、鼻に、胴体に、プラスチック製の弾丸がめり込んだ。素肌で至近距離から食らえば、例え単発でも大人が悶絶するほどだ。柔らかな猫の身体は、ひとたまりもなかった。天を切り裂く絶叫と鋭い爪が弟を襲い、泣き叫ぶ声に2階から駆け下りてきたのが義母である。弟の血まみれの顔に悲鳴をあげ、それが庭先に転がっている猫のせいとわかるなり、持っていた掃除機で叩いて吸って庭の向こうに放り出した。

「ちょうど俺はこの家に来ていてな。帰るなり居間に呼び出されて、事の顛末を聞いたんだ。俺が銃なんか持っていたせいで、猫なんか手名付けていたせいで、弟の可愛い顔が台無しだ。そう怒られた」

 自分の息子のしでかしたことは一切合切棚に放り上げてな。そう言いつつ、彼の顔は憤怒とは別の痛みを宿している。

「あれからアイツには会っていない。多分もう、生きていない。だから俺は、あれを使うのを止めたんだ」

 顛末を聞かされた瞬間彼の心を塗り潰したであろう慟哭を、想像した彼女は顔を歪める。語らせてしまったことへの悔いがじわじわと苛む。肩から起こそうとした頭は、しかし彼の手で押さえられた。だから仕方なくそのままで、彼女は眦から零れ落ちた涙を拭う。拭っても拭っても溢れる雫を、青年の指が一緒に拭ってくれた。

「あんたが泣くことじゃないだろう」

 苦笑と共に落ちてきたそれに、首を振って答える。仕方ない、とばかりにそのまましばらく付き合ってくれ、落ち着いた頃に、彼はぽつりと教えてくれた。

「黒の毛並みが綺麗な奴だった。前足と尻尾の先だけちょっと白くて、靴下履いているみたいで可愛かった。金色の目は月のように綺麗で。俺が勝手につけた名前、呼ぶとちゃんと答えて近づいてくるんだ。賢い奴だった」

「……なんて、名前?」

 鼻を鳴らしながら尋ねると、ティッシュに手を伸ばしながら彼は目を細めた。懐古の情に悔恨を乗せ、名を紡ぐ。

「朔、だ」


 ぺたりと畳に座り込み、大きく喘ぐ。持った銃を危うく落としそうになり、しっかりと胸に抱く。「さ、く」

 目眩がする。蘇った記憶に混乱が絡みつく。彼の語った特徴を、その名前を、彼女以上に知っている者はいない。

「朔、鬼」

 それは、確かに彼女が子猫と出会ったときに、子猫が自ら名乗った名前。

「生きて、この町に?」

 自分で呟いて、すぐさま打ち消す。彼女の前に現れた子猫は、まだ生後1ヶ月ほどの、本当に小さな子猫だった。では、偶然なのだろうか。でも。

「セン、爺」

 子猫が普段そう呼ぶ老猫の存在を、記憶の彼も知っていた。その老猫が、子猫を連れてきたのだ。「朔鬼」というその名前も、老猫がつけたという。この符号は、一体。でも、では、なぜ子猫は、彼女とだけ意思疎通ができるのだろう。子猫が「彼」の「朔」で、今彼女と共にいる彼が「彼」なのだとしたら、子猫が意思疎通できる相手は彼であるべきなのだ。

「みぃ?」

 廊下からひょいと顔を覗かせた存在に、びくり、と肩が跳ねる。よほど酷い顔をしていたらしい、彼は一瞬目を丸くして、それからゆっくりとこちらに近づいてきた。

「……どうした? 手に持っているそれは?」

 跪いて目線を合わせ、気遣わしげに尋ねてくる。逡巡の後、彼女はゆっくりとそれを見せた。今度こそはっきりと驚愕の眼差しを浮かべ、彼がそれを食い入るように見つめる。そっと手を伸ばして彼女の手から摘まみあげると、しばし手の中でくるくると回し、慎重に彼女に返した。

「それは、持って行かない。ひとまず閉まって置いてくれないか」

「トーヤ、あの」

 咄嗟に呼び止めて、しかし先の言葉が続かない。目の前の彼は膝を折ったまま、穏やかな目で言い出すのを待ってくれているのに、先程の記憶をどう語れば良いのかわからない。だって、もし彼が記憶の「彼」ならば、子猫を見て何も思わないはずがないのだ。けれど大学の図書館で再会したあの時、肩に乗った子猫を前にした、彼の反応は。

『……それ、みぃの猫?』

『……えらいな。ちゃんと主人を守れて』

 一瞬の驚きのあとの、少し緩んだ表情。少しだけ羨望すら混ざった声音を覚えている。一緒に暮らしてきたこの数日間も、彼が子猫と一緒にいて何か特別な眼差しを注いでいた記憶はない。彼女に何か尋ねてきたことも、ない。特徴も名前も、こんなにも似通っているのに。彼の大切な存在だった、はずなのに。

 彼に尋ねるのが怖かった。結論が出てしまうのが怖くてたまらなかった。だって今、彼女を支えてくれるはずの小さな存在が、いない。……それでも。

「朔」

「さく?」

「朔、鬼、帰って、くるかな」

 震える声の向こうで、彼が膝をついたままそっと一歩詰める。記憶よりも少し低めの体温が頭に乗った。

「帰ってくる。猫は気紛れと相場が決まっているだろう。みぃのことが大好きな彼だから、明後日には間に合うように帰ってくるさ」

 心に寄り添ってくれるはずのその言葉が、声音が、今は遠い。柔らかく動く頭の上の手になすがままにされながら、彼女の思考は揺れ揉まれ、必死に糸口を探してもがいていた。

 先程までは、一緒に帰ってくれるのならば多少の違和には目を瞑ろうと思っていた。でも、子猫が関わってくるのなら、彼が明確に「彼」でないのなら、話は別。子猫と「彼」の関係を、子猫が自分の前に現れた理由を、知りたい。本当の「彼」の居場所を知りたい。できることなら、会わせてあげたい。そしてその鍵はきっと、目の前の彼の手の中に。

 タイムリミットは2日後。覚悟を、決めなければ。たった1人であの場所に帰るかもしれない覚悟を。

 選択肢を次々に天秤に掛け、唇を噛みしめながら軽い方を捨てていき、そして彼女は、依然頭上にある大きな手をしっかりと握った。

「みぃ?」

 もう、この穏やかな呼び声を聞くことはできないかもしれない。一度痛いほど目を瞑って涙の引きを待ち、それから彼女は凜と顔を上げ、彼の眼差しと相対した。

「トーヤ、教えて。……トーヤの、目的は何」

 虚を突かれてこちらを見つめるその目が、徐々に真剣なものへと変化していく。刹那の険しさを通り越して、やがて少しだけ苦笑交じりになった。

「俺の目的は、みぃの支えとなること。ずっと、それだけだ」

「どういう、こと」

「明後日までは、言えない」

「どうして」

「それが、約定だから」

「誰との」

「それも、まだ言えない」

 恨めしげな目線を寄こすと、困ったような笑みが返ってくる。まるでこちらの焦りなど見透かされているようで、初めて彼女はらしくもなく、彼を締め上げたい衝動に駆られた。

「でも、みぃ」

 その矛先を逸らすかのように、握った手に彼の片手が添えられる。警戒も露わな彼女にしっかりと目を合わせて、彼はそっと囁いた。

「記憶をほとんど取り戻したみぃなら、多分わかると思うけれど。俺がついている嘘は、たった2つだ」

「……隠していることは?」

「たくさんある、な」

「どれも言えないこと?」

「あぁ」

「じゃぁ、勝手に、見つける」

 彼の両の手に挟まれた手をそのままに、立ち上がって彼を見下ろす。跪いたままの彼が、一瞬眩しそうに目を細めた。

「みぃ、これだけは、信じて欲しい」

 真っ直ぐに見つめられ、たじろぐ。

「俺は、みぃから離れない。絶対だ」

 それなら良いと、ただ頷いて目を閉じることは、もはやできなかった。

 雪解けまで、あと2日。

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