M7-5
見慣れた町を、雪の幕で覆いながら一心に駆け抜ける。雪解けまであと4日、ようやく抜け出して、帰ってきた。
きっと彼は遅いだの待ちくたびれただの文句を言うのだろう。それでも、ちゃんと「おかえり」と言ってくれるに違いない。だから自分は笑って返すのだ。「ただいま」と。それから人の姿になって抱きついたら、彼はどんな顔をするだろう。仕方がないと、受け止めてくれるだろうか。そしてこたつを囲んで、他愛もない話をする。北の大地で見つけたもの、出会ったもの。わからないこともあったから、彼に聞いたら答えてくれるかも知れない。それから、決めてきたことを言おう。
私は、貴方に生きていて欲しい。
青年の家は、やけに静まりかえっていた。何度チャイムを鳴らしても、一向に足音が聞こえてこない。そもそも人の気配すら感じない。
「……買い物、かな」
引き戸に背を預けて膝を抱える。しんしんと降る雪は、また少しその勢いを増しているような気がした。
「……本当に、五の姫様の力を、取っちゃったのかな」
ぽつりと零れた言葉が、風にさらわれて雪と共に流れていく。北の地で二の姫に言われた言葉が、頭をくるくると回る。
『本殿は今、その話で持ちきりだ。当代も貴殿の従者も、その対応に追われている。何故貴殿が北の地に使わされたと思う。他ならぬ貴殿が、五の姫を使えなくしたからだろう』
頭を木槌で殴られたような気分だった。ただ唖然とするしかない自分を前に、二の姫は心底呆れた口調で言った。
『当代も貴殿の従者も、例の人間も知っている話だ。まさか当の本人だけが知らないとは。まるで皆が口を噤む。過保護もここまでくると冷酷だな』
「……根負けして、って、嘘だったの」
ふるり、と、寒さからではなく身体を震わせた。やはり、自分の中には何かがいる。わかってしまったら、もう、彼の傍にいられなかった。五の姫の時は、幸いにして彼を守った。けれど、それがいつ彼自身に牙を剥くかわからない。そしてその制御装置は、自分の手元にはない。
「巻き込みたくなんて、ないから」
心がどんなに泣き喚いても、再び寂しさの坩堝の中に佇むことになっても。自分が彼を傷つけることだけは、耐えられなかった。
「それに、記憶を消したら、もう誰からも、襲われなくなるでしょう?」
思い出すだけで一生心が温まり続けるような、そんな想いをたくさんもらった。だから、もう十分。結局あの強い想いの正体はわからなかったけれど、もう、良いのだ。
「……遅いな」
徐々に暗くなっていく。滔々と降る雪の向こう、彼は未だ現れない。流石にただの買い物でないことは、彼女にもわかった。もしかしたら、まだ実家から帰れないのかもしれない。あんなにも忌避していた場所だ、辛い思いをしていなければ良いのだけれど。
膝に顎を乗せ、待ち続ける。夜遅くに帰ってくるかも知れない。そうしたら、自分が「おかえり」と言おう。そして、一緒に家に入ろう。
その時、ふ、と、影が差した。勢いよく顔を上げた先、雪明かりを背に立っていたのは、彼ではなく。
「……どう、したの」
「お迎えに、参りました」
珍しく太刀を刷いた従者が、静かに佇んでいた。そういえば彼とも4日ぶりである。
「本殿、寄った方が良かった?」
「いえ、それは構わないと、当代が」
「……なら、どうして」
言いながら、彼の表情が気にかかった。どことなく固い、冷淡な顔。何かがひっかかって、胸を騒がせる。従者はその藍色の瞳を刹那、まぶたの下に隠した。
「ここにいらしても、あの青年は、来ません」
「! 何か、知っているの」
立ち上がった彼女が、従者に詰め寄る。その固く突き放したような表情に、胸の中で不安が膨れあがっていく。従者がその口を開いた。
ごう、と、突風が雪を巻き上げ、2人の間を駆け抜けた。
「……え」
鼓動が止まる。思考が消し去られる。身動き1つ取れず、瞬き1つ許されず、彼女はただ従者を見つめ続ける。ようよう絞り出した声は、掠れきっていた。
「わたし、しってる」
「彗姫」
ギョッとしたような顔の従者に、彼女はしかめ面をしてみせた。
「そういうのを、『わるいじょうだん』って、いうんだって」
だめだよ、そんなうそついちゃ。まるで悪いことをした子どもを諭すかのように、両手を腰にまであてて、従者を見上げる。
「わたしは、ちゃんとえらんだの。それをつたえに、ここにきたの」
「彗姫」
「かれがかえってきたら、わたしもちゃんと、かえるから」
「姫!!」
両肩をぐ、と掴まれ、小さな悲鳴が上がる。目の前に、痛みをこらえるような藍の目がある。
「帰ってこないのです!」
激しくかぶりを振る。
「彼は、もう!」
両手できつく、耳を塞ぐ。その先を、聞きたくない。
「ー死んだのだから!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
吹雪が渦となり、従者を巻き込んで弾き飛ばした。激しい雪風が、青年の家をまるごと包み込み壁となって踊り狂う。その玄関先で、邪魔者を排除した彼女はもう一度、膝を抱えて座り直した。
「かえってくる。ぜったい、かえってくるもの」
だから、自分は待つのだ。「おかえり」を言うために。「ただいま」を言うために。心に決めたことを、伝えるために。
1日経ち、2日経ち。雪解けの日がやってきて、不意に吹雪の壁が掻き消えた。膝に頭をつけピクリとも動かない彼女の耳に、さらりと衣擦れの音が届く。
「全く。ぬしはまことに、とんでもない不良娘じゃの」
白銀の頭が持ち上がることはない。一向に構わず、当代は薄紫の冷えた瞳で彼女を見下ろした。
「明日よりここは春の領分。我々がいることはまかりならぬ。疾く、帰れ」
「……いやです」
膝の間から、吐息のような声が零れた。
「かえらない」
「それが、どのような意味かわかっておるな」
神の理を侵すなら、記憶を失い、人の身に堕とされ、生きていかなければならない。
「ぬしは、全てを忘れ人として生きるつもりか」
「……かえってくるの。まっていなくちゃ。ひとりは、さびしいから」
まるで会話にならないそれに、思わず長い長いため息が吐き出される。刹那瞳を閉じ1つ定めて、当代は彼女の名を呼んだ。のろのろと視線を上げる、淀みきった瞳をその眼光で射貫く。
「ならば、我と賭けをしよう」
彼女の目に僅かに灯った光を前に、当代は口元に数日前と同じ笑みを乗せた。
鳥居の向こう、中央への道が閉ざされていく。その様子を眺めながら、当代の後ろに控え佇む従者は、ぽつりと呟いた。
「よろしいのですか」
「なんじゃ、あやつがおらなんで寂しいか」
言葉に詰まって沈黙したところを、鼻で笑い飛ばされる。完全に閉ざされたのを見届け着物の裾を翻すと、当代はすれ違いざま、その細めた瞳で従者を見上げた。
「ぬしにも、担ってもらうぞ」
「……は」
「次の冬が始まり次第動いてもらう。それまでに、しっかり覚悟を決めておくことじゃの。ー凍夜」
深々と頭を下げて応じる。ひらりと手を上げて去って行く当代を見送って、彼はもう一度、閉ざされた鳥居を見上げた。腰から下げた太刀に手をやる。
「……彗姫」
最後に小さく主の名を呟くと、従者は1人踵を返した。




