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ゆきけしき  作者: 燈真
Memory7 刻限―ソノヤクソクハ―
53/69

M7-5

 見慣れた町を、雪の幕で覆いながら一心に駆け抜ける。雪解けまであと4日、ようやく抜け出して、帰ってきた。

 きっと彼は遅いだの待ちくたびれただの文句を言うのだろう。それでも、ちゃんと「おかえり」と言ってくれるに違いない。だから自分は笑って返すのだ。「ただいま」と。それから人の姿になって抱きついたら、彼はどんな顔をするだろう。仕方がないと、受け止めてくれるだろうか。そしてこたつを囲んで、他愛もない話をする。北の大地で見つけたもの、出会ったもの。わからないこともあったから、彼に聞いたら答えてくれるかも知れない。それから、決めてきたことを言おう。


 私は、貴方に生きていて欲しい。


 青年の家は、やけに静まりかえっていた。何度チャイムを鳴らしても、一向に足音が聞こえてこない。そもそも人の気配すら感じない。

「……買い物、かな」

 引き戸に背を預けて膝を抱える。しんしんと降る雪は、また少しその勢いを増しているような気がした。

「……本当に、五の姫様の力を、取っちゃったのかな」

 ぽつりと零れた言葉が、風にさらわれて雪と共に流れていく。北の地で二の姫に言われた言葉が、頭をくるくると回る。

『本殿は今、その話で持ちきりだ。当代も貴殿の従者も、その対応に追われている。何故貴殿が北の地に使わされたと思う。他ならぬ貴殿が、五の姫を使えなくしたからだろう』

 頭を木槌で殴られたような気分だった。ただ唖然とするしかない自分を前に、二の姫は心底呆れた口調で言った。

『当代も貴殿の従者も、例の人間も知っている話だ。まさか当の本人だけが知らないとは。まるで皆が口を噤む。過保護もここまでくると冷酷だな』

「……根負けして、って、嘘だったの」

 ふるり、と、寒さからではなく身体を震わせた。やはり、自分の中には何かがいる。わかってしまったら、もう、彼の傍にいられなかった。五の姫の時は、幸いにして彼を守った。けれど、それがいつ彼自身に牙を剥くかわからない。そしてその制御装置は、自分の手元にはない。

「巻き込みたくなんて、ないから」

 心がどんなに泣き喚いても、再び寂しさの坩堝の中に佇むことになっても。自分が彼を傷つけることだけは、耐えられなかった。

「それに、記憶を消したら、もう誰からも、襲われなくなるでしょう?」

 思い出すだけで一生心が温まり続けるような、そんな想いをたくさんもらった。だから、もう十分。結局あの強い想いの正体はわからなかったけれど、もう、良いのだ。

「……遅いな」

 徐々に暗くなっていく。滔々と降る雪の向こう、彼は未だ現れない。流石にただの買い物でないことは、彼女にもわかった。もしかしたら、まだ実家から帰れないのかもしれない。あんなにも忌避していた場所だ、辛い思いをしていなければ良いのだけれど。

 膝に顎を乗せ、待ち続ける。夜遅くに帰ってくるかも知れない。そうしたら、自分が「おかえり」と言おう。そして、一緒に家に入ろう。

 その時、ふ、と、影が差した。勢いよく顔を上げた先、雪明かりを背に立っていたのは、彼ではなく。

「……どう、したの」

「お迎えに、参りました」

 珍しく太刀を刷いた従者が、静かに佇んでいた。そういえば彼とも4日ぶりである。

「本殿、寄った方が良かった?」

「いえ、それは構わないと、当代が」

「……なら、どうして」

 言いながら、彼の表情が気にかかった。どことなく固い、冷淡な顔。何かがひっかかって、胸を騒がせる。従者はその藍色の瞳を刹那、まぶたの下に隠した。

「ここにいらしても、あの青年は、来ません」

「! 何か、知っているの」

 立ち上がった彼女が、従者に詰め寄る。その固く突き放したような表情に、胸の中で不安が膨れあがっていく。従者がその口を開いた。

 ごう、と、突風が雪を巻き上げ、2人の間を駆け抜けた。

「……え」

 鼓動が止まる。思考が消し去られる。身動き1つ取れず、瞬き1つ許されず、彼女はただ従者を見つめ続ける。ようよう絞り出した声は、掠れきっていた。

「わたし、しってる」

「彗姫」

 ギョッとしたような顔の従者に、彼女はしかめ面をしてみせた。

「そういうのを、『わるいじょうだん』って、いうんだって」

 だめだよ、そんなうそついちゃ。まるで悪いことをした子どもを諭すかのように、両手を腰にまであてて、従者を見上げる。

「わたしは、ちゃんとえらんだの。それをつたえに、ここにきたの」

「彗姫」

「かれがかえってきたら、わたしもちゃんと、かえるから」

「姫!!」

 両肩をぐ、と掴まれ、小さな悲鳴が上がる。目の前に、痛みをこらえるような藍の目がある。

「帰ってこないのです!」

 激しくかぶりを振る。

「彼は、もう!」

 両手できつく、耳を塞ぐ。その先を、聞きたくない。 

「ー死んだのだから!」


「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 吹雪が渦となり、従者を巻き込んで弾き飛ばした。激しい雪風が、青年の家をまるごと包み込み壁となって踊り狂う。その玄関先で、邪魔者を排除した彼女はもう一度、膝を抱えて座り直した。

「かえってくる。ぜったい、かえってくるもの」

 だから、自分は待つのだ。「おかえり」を言うために。「ただいま」を言うために。心に決めたことを、伝えるために。


 1日経ち、2日経ち。雪解けの日がやってきて、不意に吹雪の壁が掻き消えた。膝に頭をつけピクリとも動かない彼女の耳に、さらりと衣擦れの音が届く。

「全く。ぬしはまことに、とんでもない不良娘じゃの」

 白銀の頭が持ち上がることはない。一向に構わず、当代は薄紫の冷えた瞳で彼女を見下ろした。

「明日よりここは春の領分。我々がいることはまかりならぬ。疾く、帰れ」

「……いやです」

 膝の間から、吐息のような声が零れた。

「かえらない」

「それが、どのような意味かわかっておるな」

 神の理を侵すなら、記憶を失い、人の身に堕とされ、生きていかなければならない。

「ぬしは、全てを忘れ人として生きるつもりか」

「……かえってくるの。まっていなくちゃ。ひとりは、さびしいから」

 まるで会話にならないそれに、思わず長い長いため息が吐き出される。刹那瞳を閉じ1つ定めて、当代は彼女の名を呼んだ。のろのろと視線を上げる、淀みきった瞳をその眼光で射貫く。

「ならば、我と賭けをしよう」

 彼女の目に僅かに灯った光を前に、当代は口元に数日前と同じ笑みを乗せた。


 鳥居の向こう、中央への道が閉ざされていく。その様子を眺めながら、当代の後ろに控え佇む従者は、ぽつりと呟いた。

「よろしいのですか」

「なんじゃ、あやつがおらなんで寂しいか」

 言葉に詰まって沈黙したところを、鼻で笑い飛ばされる。完全に閉ざされたのを見届け着物の裾を翻すと、当代はすれ違いざま、その細めた瞳で従者を見上げた。

「ぬしにも、担ってもらうぞ」

「……は」

「次の冬が始まり次第動いてもらう。それまでに、しっかり覚悟を決めておくことじゃの。ー凍夜」

 深々と頭を下げて応じる。ひらりと手を上げて去って行く当代を見送って、彼はもう一度、閉ざされた鳥居を見上げた。腰から下げた太刀に手をやる。

「……彗姫」

 最後に小さく主の名を呟くと、従者は1人踵を返した。

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