Memory7 刻限―ソノヤクソクハ―
ぼんやりとした視界の先に、自分の屋敷の天井にはありえない丸い電灯が見えて、はて、と彼女は1つ2つと瞬きをした。下敷きにしている布団に手をつき、まだ重い頭を庇いながら上半身を起こす。身体から滑り降りた掛け布には馴染みがない。押し入れ、机、椅子、いくつかの収納箱。どれも見覚えのないものばかり。障子の向こうから赤みの差した日差しが透けて入り、吊られ壁に掛けられたジャケットの裾の方を染める。そのジャケットの持ち主に思い当たった瞬間、彼女は布団をからげて部屋から飛び出した。廊下をつっきり、茶の間の襖を勢いよく引く。タァン、と小気味よい音の先で、一面に広げたこたつ布団を布団乾燥機にかけていた青年が振り返った。
「起きたか」
あまりに普段通りのその声音に、表情に、虚を突かれる。
「な、に、してるの」
「見ての通りだ、乾かしている」
「なん、で」
「流石に、こうもびしょ濡れじゃ使えないからな」
確かに全体的にしっとりとしているが、そうではない。聞きたいことは、それではなくて。
「なんとも、ない?」
胡乱げにこちらを見上げていた青年は、その言葉に得心したようだった。片手で畳を軽く叩き、座るように促す。ほたほたと畳を踏んでぺたりと座った彼女に、しかし青年は軽く眉をしかめた。
「……あんた、ますます寒くなってないか」
「え?」
「……やっぱり。外、見てみろ」
促されるように目をやると、先程まで夕日が照っていたはずの庭は、こんこんと雪の幕で覆われていた。
「今まで、あんたがその姿の間降っていたのは、粉雪だっただろう。これ、普通に積もるぞ」
「ど、うして」
これは紛れもなく彼女の起こしていること。だが、いつの間に、こんな雪を降らせられるような力をつけたのか、さっぱり覚えがない。困惑も露わに外を見つめ続ける彼女の耳が、とりあえず、とため息交じりの声音を拾った。
「悪いがこんなだからこたつ使えないんだ。人身になってくれ」
「ご、めん」
目を閉じてイメージを組み上げる。あっという間に人の姿になった彼女に、ほう、と彼が片眉を上げた。
「早いな」
「慣れた、かな」
「そうか」
そのまま、しばし並んで乾燥機の音だけを聞き続けた。外の雪が少しずつその幕を開き、やがて最後の一粒を落として消える。見届けて言葉の整理をつけたように、青年が口火を切った。
「結論から言えば、昼間来たのはあんたに負けて帰っていった」
「……まけた?」
それはあまりに耳慣れない、あり得ない事実。戸惑いも露わな彼女に、彼は僅かに苦笑を浮かべた。
「あれは、もう根負けだな。あんた、気を失ってもずっと縁側であれを抑えていたんだよ。殴られても蹴られてもずっと、向こうが音をあげても絶対離さなかった。それで、こいつだ」
広がるこたつ布団を指して首を竦める。
「身をもって経験しているからな。ひっぺがして被せて落ち着けた」
「……そう、だったんだ」
「あぁ」
温かな一滴が胸の中心に落ちてじわりと広がる。たまらず、ぐりぐりと彼の腕に頭を押しつけた。
「っ、おい、何だ」
額に彼の体温を感じる。その事実が全身をゆっくり巡って、吐息となり、涙となった。
「よか、た」
あなたが無事で、あなたを守れて、良かった。
ややあって、大きく温かな掌が彼女の頭に置かれた。なだめるように何度かぱたぱたと動く。と、頭上からぼそり、と声が落ちてきた。
「やりにくい」
途端、頭を押しつけていた腕が外された。肩と後ろ頭を回された手で押され、中途半端に上がった顔が彼の胸元に押しつけられる。
「な、ん」
半分顔を潰されたことへの非難は、抱えられた後ろ頭の上で再び動き始めた手に勢いを削がれ消えた。背中に乗った腕も、肩を抱く掌も、やり直し、とばかりに頭を抱え動く指も、全部がゆるゆると彼女をほぐし温めていく。涙が眦から離れて彼の胸に吸われ消える。トクトクと聞こえる鼓動に、彼女はしばし身を委ねた。
だから、彼女は知らない。彼女の頭を抱きながら、彼がひどく難しい顔をしていることを。
自分の屋敷に戻ると、何故か明かりがついていた。首を傾げながら引き戸を開けた瞬間、従者の草履とは別の、小ぶりの草履が目に入る。
「戻られましたか」
手前の襖が開いて従者が顔を出した。
「誰か、来ているの」
珍しい、と眉を寄せると、従者の顔の下からにょきり、と、もう1つ顔が現れ、口の端を持ち上げた。
「なんじゃ、随分と遅い帰りじゃのぅ、不良娘よ」
くるり、と向きを変え出て行こうとして、自分の屋敷なのに出て行かなければならない理不尽さに思い当たり、大きなため息を吐く。諦めてとぼとぼと廊下を歩み寄るのを、それは楽しそうに見られているだろうことが、また癪だった。
既に用意された座布団は2枚、当代と彼女が対面して座ると、襖を閉めた従者が隅に控える。
「今日は随分と荒れたようじゃのう」
「……はい」
「しばらく、我が呼ぶまでは本殿には寄らずとも良い。5の姫の従者どもが騒いでおってな。面倒ごとに巻き込まれるのは本意ではなかろう?」
はて、と彼女は目を瞬く。確かにそれは近寄りたくない。しかし、当の本人ではなく、従者たちが騒ぐというのは。
「あの方ご自身は……」
今度は当代が目を瞬いた。
「ぬし、あの童から何を聞いた?」
「……根比べで、負けて帰られた、と」
「ほう」
曲げた人差し指を口元に、親指を顎に当て、当代の目が細められる。何か、と身構える隙もなく、それは投げられた。
「ぬしはあの童をどうするつもりかの」
「……どう、とは」
「まさか、神の掟を忘れたわけではあるまい?」
彼女の肩が目に見えて揺れた。膝の上に揃えられた手がじわりと拳に変わる。
神は人に姿を見られてはならない。神は人と交わってはならない。侵した時の選択肢は3つだけ。
1つ。記憶を奪い二度と目に触れない。
2つ。我ら神の眷属にする。
3つ。その命を絶つ。
「……忘れて、は、いま、せん」
掠れた声は頼りなく、我ながら説得力がない。けれど、固く目を閉じて、彼女は続けた。
「ちゃんと、考えて、います。でも、まだ、彼を通して、知りたいことが、あるから」
人の姿に変わり、今までよりもずっと彼の近くにいられるようになってから、様々なものが全て光を帯びて見える。もっと見てみたい。もっと、触れてみたい。もっと、彼の鼓動を、感じてみたい。だからまだ、目耳を塞いでいたいのだ。
俯いた彼女の頤が、当代が呼ぶ真名によって上げられる。怖々と開かれた彼女の瞳に映った当代は、頬杖をついて片方の口の端を持ち上げた。
「近々、雪解けの神が日取りを決めにやってくる。我らが人界を去る日も、決して遠くはないぞ」
「……はい」
「それまでに、定めておくことじゃの。ーあれの処遇と、ぬしの覚悟を」
覚悟。その二文字が双肩に重くのしかかった。目を逸らし俯いた彼女の喉を、砂のような感情が下り胸に沈殿する。いつだって、足りないと訴えられるのは、その二文字。不甲斐ないちっぽけな自分には、あまりに重たすぎるそれから、これまではどうにか逃げて逃げて、閉じこもってきたけれど。青年の顔が浮かぶ。心の底を想いが漂う。
「……わかり、ました。当代」
もう、逃げ続けるわけには、いかなかった。
本殿に行かなくなった分、午前中から青年の家に向かう。引き連れる雪が道路や家々に滔々と積もっていくのを、彼女はやはり困惑の中見つめていた。試練の前、当代に「強くなった」と言われた。これには心当たりがある。二度としない、と心に定めた。しかし、試練の後、ふと気づくと粉雪の量が増えていた。そして、昨日からはとても粉とは呼べない粒量の雪。全く心当たりがない。
「……私に、何か、起きてる」
ぽつり、と呟いたその途端、背筋を氷柱で撫でられたような怖気を感じ、思わず両腕を抱いていた。知らないうちについている力。いつか、知らないうちに徐々に自分の身体を乗っ取っていくのではないか。心底に知らず据えられた檻の向こう、ニタリと笑ったもう1人の自分がいるとすれば。いつかこの手を捕らえて引き寄せ、入れ替わろうとするのではないだろうか。そうなれば、自分は。……青年は。
ひっそりと名前を呼んでみる。それだけで、少しだけ、恐怖が遠のいた気がした。彼が呼んでくれる、その声を思い出す。少しだけ、心が温かくなったような気がした。胸の上で両手を重ねて、小さく頷く。この名前を、この声を覚えている限りは、きっとまだ、大丈夫。




