O6-4
雪を避けて店の軒下で丸くなっていた老猫は、隣塀の上をこちらへと駆けてくる黒い影に、思わず身を起こした。闇色のその小さな体躯は、しかし雪明かりと月明かりを共に受け、夜闇に紛れることなく浮かぶ。しかしそれは、本来ならこのような場所でこの時間に見かけるはずのない姿だった。ましてや、もうじき春というのなら、なおのこと、傍にいるべき相手がいるだろうに。
「朔」
声をかけると、塀の角でピタリと止まった。背負った三日月よりもなお黄金の瞳が、怪しく輝きながら見下ろしてくる。月光が黒い毛並みの上を滑り、燐光を放つ。朔の鬼が、そこにいる。
「……どうした」
「……セン、爺」
呟いた声は掠れきっていて、飛び降りた足音からは、いつもの軽快さがまるで失われていた。一気に数年も年を重ねたように、下手をすれば老猫よりもよほど生気を失ったように、その子猫は隣に丸まった。そのまま、みじろぎ1つしない。かといって、眠っている様子でもなく、何かをこらえているようで。一転見下ろす形になった老猫は、ゆっくりとその目を細めた。ただ事ではない何かが、子猫とその主の間に起きている。前足を丸めて座り直すと、彼はゆっくりと長毛の尻尾で彼の背中を撫で始めた。いまだふわりと漂っていた燐光が、尻尾に絡まれて子猫の中へと消えていく。ピクリと、鼻先が動いた。
「……どうして」
粉雪よりも小さな声だった。
「どうして、僕は、こんななんだろう」
滑らかな黒の毛並みの奥の奥、身体の中心で、ゆるやかに傷口が開いていく。
「どうして、こんな、中途半端に生まれたんだろう」
1筋、2筋、赤いものが滲み出て、心の、魂の上を流れ新たな傷を生んでいく。
「声だけしかかけられない。傍にすらいられない。何の、力にもなれない。ただ、言葉だけが交わせるだけで」
食いしばり噛み殺して、それでも止められない言葉が、呻きながら吐き出される。
「いっそ、普通の猫だったら良かったんだ」
老猫の耳がはたと動く。子猫の語気が、震えに耐えかねるように荒くなる。
「互いに言葉がわからなくても、わからないなりに、寄り添って生きていけば良かったんだ!」
傷だらけの魂を晒し、慟哭を身にまとい、彼はついに、血に塗れたその言葉を吐き叫んだ。
「いっそ、俺が人間だったら!!」
「朔!!」
凍りついた夜の空気を、老猫の呼び声が刹那切り裂いた。息を潜めて積もる雪の上に、再び沈黙が降りる。老猫は静かに息を吐くと、子猫の頭に尻尾を置いた。
「……今は、何も考えず、眠りなさい」
「……セン爺、僕は……」
「眠るのじゃ、朔鬼」
抑えるように繰り返すと、やがて隣から小さな寝息が聞こえてきた。もう一つパタリと尾で撫でてやりながら、老猫は粉雪がちらつき始めた空を見上げた。
春が来る。別れの、春が。




