O6-3
冬の終わりに抗うように雪はしばらく降り続き、その間彼女と子猫と青年は、温かな平屋の中でゆったりと日々を過ごした。彼女は大学に退学届を出し、古書店の老夫婦の所に挨拶に行って、春になったら実家に帰ることになった、と伝えた。老夫婦は皺の刻まれた顔に更に皺を刻んで目を潤ませ、またの再会を望んでくれた。年を経てかさついた両の手で彼女の頬を包み、その肩を抱いてくれた。一体どこまで察して、案じてくれていたのか、彼女にはわからない。でも、この1年間、確かに彼らは、穏やかに彼女を包んでくれていた。
「……良いご夫婦だ」
店から少し離れたところで待っていた青年が感慨深そうに呟く。人身ゆえにはらはらと零れる涙をその指先で拭われて、彼女は万感の思いで頷いた。
そして、春を指折り数えるようになった夜。雪が止んだのを見て老猫のところに顔を出し、庭を突っ切って帰ってくると、縁側で子猫の主が障子の角にもたれかかり眠っているのが見えた。白銀の髪が雲間から差す月光を受け、艶やかな光を放っている。もしかして、自分を待っていたのだろうか。その姿なら寒くはないだろうが、その格好では身体を痛める。起こした方が良いか、と、石段に前足を掛けたところで、ふと足音を聞いた。
「みぃ?」
風呂上がりなのか、肩からタオルを提げた青年が茶の間を突っ切ってやってくる。何となく入りにくくなって、石段の上から覗き見ることにした。
「なんか部屋が暗いと思ったら……みぃ?」
傍らに跪き、顔を覗き込んで、眠っているとわかると苦笑する。しかたないな、と呟くなり、彼は少し瞳を伏せて思案する様子を見せた。月の光が雲に遮られ、雪明かりも鈍るその刹那。彼は彼女の背と膝の裏に両手を差し入れ、よ、と軽い掛け声と共に抱き上げた。そのまま何でもないように茶の間を過ぎ、奥の寝室に運んでいく。ほう、と見送って、子猫は縁側の縁に乗せた己の両前足を見つめた。
「無理だなぁ……」
しみじみと言いながら縁側に飛び乗り、思い返しながら茶の間に入ったところで、ようやく「それ」に気づく。
「あ、れ……?」
もう一度、先程の光景をなぞる。どこか、とてつもなく、違和感を覚える。耳の毛先に羽毛が引っかかっているような、妙な感覚。ゆっくりなぞりなおす子猫の瞳が丸くなる。背中が粟立ち、毛が1本残らず逆立つ。違和感の正体。それは、青年の行動そのもの。
彼はどうして、彼女をそのまま抱きかかえて運べたのだ。雪神の姿の彼女を、どうして。
今すぐにでも寝室に飛び込んで行きたい衝動を、彼はすんでのところで抑えた。青年にこちらの言葉は通じない。下手に刺激をして眠っている彼女に何かあってはいけない。ならば、まずは彼女が起きているとき、時を見計らって話をしなければ。寝室から戻り茶の間に布団を敷き始めた青年は、どう見ても至っていつも通りで、試しにギリギリまで傍を通ってみても、不思議そうな顔をされただけで何も言っては来ない。体温も、彼女の言うところの「少しだけ低い体温」のような気がする。気のせいだったのか。幻だったのか。……否。寝室に滑り込み彼女の布団の上で丸くなりながら、子猫は思考を巡らせる。
実は、未だ解の出ていない問いがある。
なぜ、彼女は雪神なのに、雪が嫌いなのか。
子猫は覚えている。初めて雪が降った日の朝、記憶がなかった彼女が呟いた、一言。
『もしかしたら、すごく嫌なことがあったのかもしれない』
あの時の感覚を信じるならば、青年と交わした春前の再会の約束は、その「すごく嫌なこと」に入るのだろうか。帰ってこない青年を待つことを選んだのは、彼女自身。ならば、それは「すごく嫌なこと」ではないのではないだろうか。違和感がある。まだ隠されている、閉ざされている何かがある。額が再びむず痒くなって、子猫はふるりと首を振った。何かが、欠けている気がしてならない。静かに目を閉じたまま、彼は夜明けを待った。
結局、話すチャンスを得たのは、夕食を終えて青年が風呂に入っている時間だった。彼女が一向に青年の傍を離れようとしなかったのだ。まるで、これまでを埋めるように、この先を惜しむように、少しでも魂に想いが記憶されるように。あるいは、と、子猫は焦燥に駆られながらも、どこか冴えた頭で考える。
彼女は、怯えているのではないだろうか。春になり、神界に帰ることを。掟を破り罰を受けた彼女が、帰ってどうなるのかは子猫にはわからない。けれど、「独りぼっち」だと言っていた。だから、青年といることで、少しでも紛らわそうと、自分を安心させようと、しているのではないか。
先の白い尾っぽを一振り、てぽてぽと歩き、人身のままコタツで丸くなっている彼女の隣に腰を下ろす。すぐに彼女の手が降りてきて、耳から額にかけて柔らかく撫でた。子猫の大好きな手。刹那、躊躇いが掠めた。この手を、失いたくなかった。できるならこのまま擦り寄って、膝の上でぬくぬくと丸くなりたかった。でも。
「みゅう、話がある」
「? なぁに?」
今はまだ冬で、だから彼女を守る役目は、まだ自分のものだから。
「昨日の夜、縁側で寝ちゃったの、覚えてる?」
子猫は、全部話した。昨晩見たことを。気になっていることを。彼の語ったことが本当に全てなのかということを。ー彼を連れて行くことが、本当に正しいのかということを。
子猫の頭を撫でる手は、とうに止まっていた。ただ置かれたまま、みじろぎもしない。時間そのものが止まってしまったように、何も、動かない。掌ごしに彼女の顔を見上げようとしたその時。その手が、すっと離れていった。
「ねぇ朔鬼」
いやに静かな声が、降ってくる。
「知ってた? トーヤね、私の名前、みつるって、一度も、ちゃんと、呼んでくれないの」
「……え?」
「どうしてだろうって、ずっと、思ってた。でも、この前トーヤに話を聞いて、わかった。貴坂みつるは、多分、私の本当の名前じゃ、ない。私が人になった時に、勝手につけた名前」
子猫の目が丸くなる。完全に、盲点だった。では、でも、それでは。
「あいつは、みゅうの本当の名前を、知ってる?」
「呼ばれていた記憶は、あるの。でも、何て呼ばれていたのか、自分の本名が、わからない。どうしても、思い出せない」
それにね、と電灯の明かりを背にこちらを見下ろすその顔は、苦笑、と呼ぶには途方に暮れ影を負い過ぎていた。
「トーヤには、言ってないけれど。記憶の中のトーヤの顔も、声も、『トーヤ』と私が呼んでいたことも、なんか、ぼんやりしてて。完全には、思い出せてないの」
どうしようね、と笑う彼女に、子猫は返す言葉がない。それは、実質、彼自身について全然思い出せていないということではないか。ただ絶句する彼の前で、しかし、その笑みと影を引きずったまま、彼女はきっぱりと言い切った。
「でも、良いの」
「……は?」
「この冬の間、一緒にいたから、楽しかったから、良いの」
「みゅう?」
「この先ずっと一緒にいてくれるのは、トーヤだもの。だから、良いの」
瞬間、子猫はその影の正体を見た。深淵を漂うその孤独を。想像よりも遥かにひっ迫した、繋がりへの切望を。それが子猫の前で濃くくゆり、ぐにゃりとうねって歪んでいく。それはまるで、依存のようで。
「例えトーヤが何でも、私は、もう、あの世界で、独りぼっちは嫌」
頬を伝う涙1筋を、以前の子猫ならすぐさま舐めとることができた。なのに今彼は、その涙が唇の横を伝い、顎から離れて落ちるまで、身動き1つ取れずにいた。
「だからね、朔鬼」
放っておいて。何もしないで。
その言葉は、鉄槌となって彼を打ちのめす。
「朔鬼の思いは、しようとしていることは、私を搔き乱すだけだから」
もう、守ろうとしなくて良い。
「ごめんね。心配してくれて、ありがとう」
気持ちを、畳まれた。誓いを、取り上げられた。緞帳が重たい音と共に落ちてきて、彼女を隔て覆い隠す。自分の思いが、行動が、邪魔だというのなら。彼女がそれを望むなら、子猫にできることは、もう。
「みぃ? どうした?」
「トーヤ。……うぅん、何でも、ない」
その2つの声を背に、子猫は縁側から庭に飛び出した。




