Oblivion6 転身ーヨリソッテイタココロー
約束の日、昼過ぎになって来訪者を告げるチャイムが茶の間に鳴り響いた。茶の間で膝を抱えていた彼女は肩を揺らし、コタツに両手をついて鉛のような腰を持ち上げ、重りの付いた足を引きずりながら廊下を行き、戸に映る影に何度も手を伸ばしてはひっこめを繰り返す。隣で終始見守っていた子猫がいよいよ見かねて口を開きかけたその瞬間、彼女は目をぐっと瞑った。震える指先で戸に触れて、引手に指を掛けゆっくりと力を込める。音を押し殺しながら開く戸の、その向こう。
「……久しぶり」
覚悟していたよりもずっと穏やかな声に虚を突かれる。垂れていた白銀の頭を思わずあげた彼女は、そこに少し嬉しげな彼の瞳を見た。どうして、そんな顔をするのか。眉が下がり、視線が泳ぐ。そんな彼女の心理を的確に理解したらしく、彼の口元に苦笑が浮かんだ。
「正直なところ、俺にはそっちの方が見慣れている」
「……そう、だったの」
「でも、記憶を失くして不安定だったみぃに、実は人間じゃないなんて言えなかった」
黙っていて、悪かった。そう言って頭を下げかける彼を、彼女は必死になって引き止めた。その心配りに感謝こそすれ、謝られる理由はどこにもない。そう思っていたけれど。
「話すよ。みぃが誰なのか。どうして、人間として暮らしてきたのか」
再会した時の言葉を思い出す。俺のせいだ、と彼は言った。その意味が、ようやくその口から語られる。子猫が目を細めた。彼女がそろりと片足を引いて、彼を迎え入れる。出会ってから約2ヶ月と少し。ついに、その敷居が越えられた。
そして、通した茶の間で彼女は聞いた。
自分がもともと雪の神であること。それどころか、雪神のトップである雪大神「刹梛伎」の次代候補であること。
事故に遭った彼を偶然助けたことから、「人間のことを色々教える」という名目で交流が始まったこと。
彼が退院した後は場所をこの家に移し、交流が続いたこと。その流れで、彼女が人間に化身する術を身につけたこと。
その語られる一つ一つが、彼女の記憶の箱を刺激する。実はもう鍵などすっかりなくなって、半分開いていた蓋に、彼の言葉がするすると絡まり、ゆっくりと押し上げていく。まぶたの裏に1つずつ、けしきが蘇る。音が、声が、色が、感触が、空気が、感情が、蘇る。強く目を瞑って記憶の奔流に耐える彼女を、何もしてやれない子猫と青年はただじっと見守った。時計の針が動く小さな音だけが、ただ室内をゆるりと巡る。険しく寄った眉間が、ややあって緩やかに解かれていった。白藍の双眸が静かに現れる。一言も発することのない1人と1匹を交互に見て、彼女はぽつり、と呟いた。
「……こんなに、たくさん、忘れて、たんだ」
「みゅう」「みぃ」
片方の眦から溢れた涙が、雪の結晶となってはらり零れる。拭うことのできないその手を握り締める青年を横目に、子猫は彼女が落ち着くのを待って、こうなってからずっと気になっていたことをようやく口にした。
「みゅう。雪の神様のみゅうが、どうして、これまで雪を嫌っていたの」
え、と彼女の口が半分開く。そのまましばらく探るように目を伏せて、やがて困惑した顔でふるふると首を振った。思い出せない。蓋は開いた。記憶は流れ出している。それなのに、まだ、凍り付いた部分がいくつかあるのだ。そしてそれを解く鍵はまだ、目の前に凪いだ瞳で座る青年の手の中に。ふと彼女の中を逡巡が駆けた。何故か警鐘が聞こえる。その先は駄目だと、やめておけと、震える声が囁く。それでも、聞かなくてはいけなかった。彼の瞳に見え隠れする、罪の感情に気付いてしまったから。だから、あえて、切り込んだ。
「どうして、あの時、俺のせい、って、言ったの」
瞬きを1つして、怪訝そうに眉を寄せて、それから彼は納得したように頷いた。
「そこまでは、やっぱり、まだか」
「……うん」
そうか、という呟きが、縁側から忍び寄る冷気に凍えて落ちる。細く開いた障子の向こうで、音もなく雪が降り積もっていく。彼女自身が発する冷気もあって部屋は薄ら寒く、子猫と青年だけがコタツで暖を取っていた。しばらくその細い隙間の向こうを眺めていた彼が、ようようぽつり、とそれを口にした。
「ちょうど、こんな日だった。高校の卒業式に出るために、俺は一度実家に帰らなくちゃならなくなって、その時、みぃと約束をした」
「やく、そく?」
「あぁ。卒業式が終わったらすぐ帰ってくる。春になる前に、もう一度会って、話そう。そんな約束」
子猫が、ピクリと耳を動かした。額に何かあるのか、コタツの足に擦りつける。代わりに掻いてやろうとして、伸ばした手の白さに気づいて引っ込めた。所在がなくなったそれを、膝の上で握りしめる。
「……でも、会えなかった」
「あぁ。実家の方で色々あって、帰ってこられないまま、春になった」
あぁ、と彼女は堪らず目を瞑った。雪神としての記憶を取り戻した今ならわかる。春になれば、自分たちは人界から去らなくてはならない。鳥居を閉じて、次の冬まで神界に留まることになる。他神の領分を侵すことなかれ。それが、自然を司る神々の摂理であり、絶対不可侵の掟。その掟に従わず人界に留まれば、相応の罰が下る。
「……私は、その罰を受けたのね」
「知らなかった。春になった時、みぃはもう去ったに違いない、約束を破った以上、もう会わないかもしれないと思った。だから、やっとこっちに戻ってきて、大学でみぃを見つけた時は本当に驚いたんだ。どうして人の姿でそこにいるのかがわからなくて、慌てて駆け寄って……」
そうして再会した彼女は、記憶の一切を失っていた。自分が雪神であることも、彼と過ごした冬の日々も。
青年が机越しにゆっくりと手を伸ばす。みじろぎ1つしない彼女の頬に触れる、その僅か手前で止まった。少し低めの彼の熱が、その数ミリの空間を越えて伝わってくる。彼女を見つめる彼の目が、揺れて細められた。
「約束を守ろうとして、掟を違えたんだろう、みぃ。本当に、悪かった」
伸ばされたその手に同じだけの空間を隔て、彼女が自分の手を添える。そのまま、揺れる瞳を覗き込んで、彼女はゆっくりと首を振った。
「……私が、選んだことだから」
ずっと彼から「人間について」学んできたのだ。その集大成がこの「実地研修」だったのだと思えば、そして再びこうしてちゃんと会えたのなら、この1年などどうってことない。それに、彼女は独りではなかった。
「私も、ごめんなさい。ずっと、今まで、思い出せなくて」
「みぃが謝ることじゃない」
緩く首を振って触れないように手を引くと、彼はそれを机の上で組んだ。もう一度合わせた目は、ひどく真剣なもので。
「記憶を取り戻したなら、みぃ、わかると思うけど」
「……うん」
隣で丸まる子猫の耳が、再びピクリと動く。ふい、と鼻をあげて、彼女を見上げた。
「もうすぐ、雪解けが、春が、やってくる」
神界に、帰らなくては。




