O5-2
夕方頃、玄関の硝子戸に再び小さな影が映った。痺れる足に構うことなく飛びついて開くと、来たときと同じように老猫がするりと入ってきた。続く斑猫の背中には、どこで巻かれたのか胴体に包帯をつけ毛並みを綺麗に整えられた子猫が乗っていた。斑猫が一度こちらを見上げ、短く鳴くと上手いこと三和土に上がる。どうやら室内まで運んでくれるらしく、老猫と並んでじっとこちらを見上げて待っている。
「……あの、こっち」
茶の間に案内し、子猫がよく丸まっている座布団を示すと、斑猫と老猫はそこまで歩いて行って、これまた器用に背中から子猫を下ろす。座布団の上に横たわる子猫は、心なし表情が穏やかになっている気がした。お腹もゆっくりと動いている。心を覆っていた氷のような不安の塊が溶け落ちて、大きく吐いた息と共に消えていく。
「……ありがとう」
震える声で礼を告げてから、彼女はふと思いついて台所に向かい、煮干しの袋を持ってきた。
「お礼、これしかないのだけれど」
袋を開けて中身を取り出そうとした瞬間、老猫が鋭く鳴いた。驚いて取り落とした袋から、煮干しが数匹こぼれ落ちる。老猫は斑猫の方を向いてひげを動かすと、3匹ほど煮干しを咥えた。残り5匹ほどを斑猫が咥え、2匹はそれぞれこちらを見上げて尻尾を一振りすると、玄関からするりと抜けて帰って行った。それを見送り、茶の間に戻る。持って行かれず零れたままの煮干しを拾い上げた、その時。手の中で煮干しが固く凍った。ギョッとした彼女の目の前で、それは見る間に小さくなっていき、豆粒ほどの氷の塊になる。掌から何かが体中を巡り、腹の中に収まる。それはまるで、何か物を食べた時の感覚に似ていた。
「……なに、が」
カクリと膝を折り、手の中にありながら溶けることのない塊を呆然と見つめ、呟く。これは、人間の所行ではない。猫たちの体温が熱いのではなく、自分の身体が冷たいのだ。思い出すのは、暴漢から子猫を助けるために手を伸ばした、あの瞬間。どうなっても、取り戻さなければという強い想い。これが、その対価だと言うならば。
「……私は、何に、なったの……?」
視界の片隅で、子猫の耳がひくり、と動いた気がした。
子猫の意識が戻ったのは翌朝だった。冷たいままのこたつに入り、横になって座布団の上の彼を見つめていたらいつの間にか眠っていたらしい。目を覚ますと、まん丸な金の瞳とぶつかった。
「おはよう、みゅう」
少しだけ掠れた声には、しかしはっきりと生気が感じられた。それが、今の彼女にはたまらなく眩しく、温かい。
「……おはよう、朔鬼」
目尻から零れた涙を見て、子猫が目を丸くする。
「……すごい。みゅう、涙が雪の結晶になる」
「……え」
慌てて起き上がり、こめかみにあるはずの涙の軌跡を押さえる。いつもならしっとり濡れるはずの感触がない。カーペットにそれらしき染みはあったが、それだけだ。
「あっという間だったから、自分では見えないかも」
「そ、か……」
起き上がりついでにいそいそと居住まいを正し、寛げていた身体を起こそうとする子猫を制して、彼女は深々と頭を下げた。
「ちょ、みゅう!?」
「ごめんなさい。朔鬼を、危険な目に遭わせて、こんな怪我をさせて。痛かったでしょう? 怖かったでしょう?」
「違う!」
子猫が尻尾で畳を鋭く叩く。
「みゅうを逃がしたのは僕だ! 僕がみゅうを助けたくてしたことだ! 怖いもんか。痛いもんか! それに」
そこで、初めて彼は、痛ましさに悔しさも織り交ぜた目で、彼女を見上げた。
「結局、僕はみゅうに助けられた。暴漢を倒したのはみゅうだよ。みゅうが、その力で倒したんだ」
「……そう、なの」
「やっぱり、覚えていないんだ」
そして、彼女は子猫からあの晩のことを聞いた。子猫が気づいた時にはもうその姿になっていたこと。吹雪を操り暴漢を雪の塊にしたこと。でも、とどめだけは刺さなかったこと。
「そんな、こと」
自身の両手を見下ろし、言葉に詰まる。その耳に、ごめん、と、小さな謝罪が届いた。
「朔鬼?」
「僕が、上手くやらなかったから。みゅうがそうなったのは、僕のせいだ。みゅうをそうしたのは、僕だ。ごめん」
「ち、がう!」
今度は彼女がこたつを叩いた。
「わ、私が、助けたかったの! どうしても、どうなっても、助けたかったの! だから、だから!」
両の目から熱を持たない涙が零れる。溢れ落ちた側から、雪となってはらはら舞う。
「朔鬼が、いないのは、嫌、だから」
絶望はしても、後悔はしない。
その言葉を聞くなり、子猫は淡く口の端を持ち上げた。
「うん。僕も」
だって、ずっと傍で守ると決めたから。
それから、でもね、と囁いた。
「僕は、その目も髪も、好きだな。綺麗だから」
それだけで、彼女の心は少し軽くなる。
「……抱っこも撫でるのも、できなくなっちゃった」
「あーあ。僕のシルクの毛並みを堪能できないなんて、残念だね」
「本当」
クスクスと2人で笑い合って、そのうち子猫が小さくくしゃみをした。
「みゅう、やっぱりみゅう、雪の何かになったんだよ。寒い。この部屋、すっごく寒い。僕風邪引く」
「ご、ごめん! 温かくなるもの、持ってくる!」
そうしてありったけの暖房器具を持ってきて、バスタオルを増量して、熱さに近寄れるギリギリのところに座って、彼女はようやく、ゆっくりと呼吸ができるようになった。落ち着けば様々な問題が浮かんでくる。このままでは学校にもバイトにも行けない。そこはひとまず電話で休学と休職を申し出ないといけない。買い物にも行けない。今のところ不思議と腹は減らないが、今後どうなるかもわからない。何より。
「トーヤ」
彼にも、もう会えない。こんな姿、見られるわけにはいかない。優しい声。細めた瞳。背中や頭を撫で、支えてくれた大きな手が、自分に触れることはもうない。それが、無性に寂しく、悲しかった。




