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ゆきけしき  作者: 燈真
Memory5 共涙―フタリボッチ―
36/69

M5-4

 久しぶりに足を運んだスーパーには、荷物持ちとして祖母に付き合って来ていた。売り場の間取りを思い出しながら、腕に下げた籠の中に食材や菓子や飲み物を入れていく。とりあえずはここ数日分の食料を確保しなければ。そう思いながら入れた量は、どう見ても1人分よりも多い。祖母がいた時と同じ感覚で入れていたことに、会計時に気づいた。仕方がない。左手に下げてゆっくり歩く。

 祖母の友人夫婦が商う古書店の前を過ぎ、雪の中を確かめるように歩く。途中で気づいて、足を速めた。別にもう、隣を気遣わなくて良いのだった。

 ポケットに入れた携帯が震えたので取り出すと、携帯会社からのDMだった。秋終わりにバイトを辞めてからずっと、それ以外で携帯が震えたことはなかったので、またか、とすら思わなくなった。サクッと削除してポケットに戻す。

 ふと振り返ると、雪道の向こう、赤煉瓦の建物が頭を覗かせていた。雪が溶けたら通うことになる大学。誰かと談笑しながら通っている自分が、事務連絡ではなく誰かとの雑談で埋まった携帯が、全く想像できなかった。

 生き残ってしまった、神に生かされてしまった自分がこれから直面しなければならない生活が、将来が、じわじわと冷気と共に這い上がってくるのを感じて、彼は咄嗟に首を振ると、足早にそこを立ち去った。


 玄関口で靴の雪を落とし、からり、と戸を引いて後ろ手に閉め、靴を脱いで三和土に上がろうとしたその時。ぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。つ、と上げたその瞳に、両手を胸の前で組んだ白い娘が映る。白銀の髪が流れ、青の曼珠沙華が廊下の灯りに光る。白藍の瞳が何故か期待に満ちている。いったい何を、と10秒ゆっくり考えて、それから出かけるまでの会話をもう一度思い出して、さらに10秒ほど時間を要して、ようやく彼はその言葉を口にした。

「……ただいま?」

 その瞬間の彼女の表情を、彼は2度と忘れない。瞳がくるり、と光る。口元がほころぶ。組んだ両手に力がこもる。少しだけ緊張を残して、それでも彼女は、透き通った頬に笑みを乗せ、小さな声に大事そうにそれを乗せて柔らかに差し出した。


「"おかえり"」


 ガサリ、と何かが落ちた音がして、急に視線がぐん、と下がった。彼女の着物の裾の方、白から青へとグラデーションがかかるその色彩を、徐々に滲んでいくその様を、唖然と見つめる。彼を呼ぶ声が、遠くで拡散して聞こえる。

『おかえり! 学校どうだった?』

『おかえり。ごはんできてるよ』

『おぅ、おかえり。ちょっとこっち付き合え』

 

 もう、2度と聞けない。

 もう、2度と。


 視界に白藍の瞳をとらえた瞬間、彼は決壊した。


「っあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 廊下に咆哮が谺する。膝の横で垂れていた手が拳を作り、固く固く握られる。彼女の目の前で、大粒の雫がぼたぼたと床に落ちていく。呆気にとられたまま、彼女は俯き吼える彼の旋毛を見つめていた。

 今、彼の中で何が起きているのか、彼女には全くわからない。ただ「"おかえり"」と言っただけなのに、それがどうして、泣くことに繋がるのだろうか。

 でも、その涙は、その色は、見たことがあった。彼と初めて会ったあの時の、一筋流れたあの涙が、まさにこんな色をしていた。ただ悲しいだけではない。ただ辛いだけではない。ただ苦しいだけではない。それよりももっと、暗がりにある言葉。認めてしまったらもう立ち上がれなくなりそうな、光を求める言葉。彼女自身の中にあって、彼と手を繋ぎたがっている「何か」の正体。

 思い出せ。彼がこの家に帰ってきてからの様子を。これまでの彼との会話を。彼とは、どういう人間だったかを。思い出せ。考えろ。彼を包み込む、この感情の正体を。

 やがて、彼を見つめる彼女の瞳から、静かに一筋涙が落ちた。頬を離れた瞬間、雪の結晶となり輝きながら舞い落ちていく。あぁ、わかった。

 踵を返して茶の間に戻ると、こたつ布団を剥ぎ取った。十分な厚さのそれを抱えて彼の元へ戻ると、大きく広げて彼を包む。そして、膝をつき腕を伸ばすと、その頭をかき抱いた。咆哮が止む。

「さび、しかった」

 そっと告げて、その頭に頬を寄せる。

「さびしかった、んだ」

 腕の中で頭が震える。は、と息を吐く声が聞こえる。

「ずっと、さびしかったんだね」

 抱えた頭に胸元を強く押されてぺたり、と床に座り込む。布団越しに撫でると、震えはより大きくなった。布団の裾が持ち上がって、彼女の腰の辺りに巻き付く。強く引き寄せてきたその腕もやはり震えていて、布団の中で迸る慟哭を聞きながら、彼女はまた1つその頭に雪の結晶を落とした。


ずっと見ないようにしていた。ずっと、気づかないようにしていた。あの事故で死の淵に瀕してもなお、決して認めたくなかった。だから、初めて会った時も、彼女の口を封じた。見つめてしまっては、認めてしまっては、もう立ち上がることなど、できなくなってしまうから。これまでの短い人生を、あまりに虚しく感じてしまうから。けれど、もう、駄目だった。

 あぁ、そうだ。さびしかった。ずっと孤独だった。母を失ってからずっと、親友と祖父母を失ってからはもうどうしようもなく。本当に、ただ、さびしかったんだ。

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