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ゆきけしき  作者: 燈真
Memory5 共涙―フタリボッチ―
35/69

M5-3

 鍵を抜いて扉を横に引くと、カラカラと乾いた音と共に、とても懐かしい香りがふわりと漂った。庭付きの小さな平屋。暗い家の中、畳と木の香りに混ざって、未だに少し残る、人の住んでいた香り。実家から送ってきた荷物もそのままにバイクで飛び出して、事故を起こしてから1ヶ月と少し。帰って来た。

 何の気なしにただいま、と口にし、そのまま三和土に寄って踵に反対の足の爪先を引っかけて、そこで、ようやく止まった。そうだ、もう、「おかえり」は返ってこない。台所から、あるいは居間から顔を出して微笑んだ小さな姿はもうない。そんなこと、2ヶ月前からわかっていたことだったのに。

 少しだけ目を瞑り、改めて靴を脱いで揃える。廊下の電気を点けて、そこで初めて、入口で立ち尽くしている人物に気づいた。

「入ってくれば良いだろう」

「うん。その……"ただいま"?」

 あまりにぎこちないそれに、ふ、と口から息が飛び出た。

「"ただいま"ってのは、自分の家に帰ってきた時に言うんだ。……家にいる人間に、帰ったことを知らせる挨拶みたいなもんだ。よその家に行った時は、"お邪魔します"が日本流だな」

「そう、なんだ……」

 それから彼女は心なし居住まいを正して、両手を前に揃え、それは綺麗なお辞儀をした。

「お邪魔します」

 さらりと流れる髪を呆気にとられたまましばし眺めて、我に返る。

「そこまで畏まる必要もない。どこで覚えたんだそんなお辞儀」

「大きい建物の前で、着物を着た女の人が、大きな車から出てきた人たちに向けてしてた」

「宿屋の女将の真似か。あれは出迎えの挨拶だ。客がするもんじゃない」

 彼女が草履を脱いで揃えるのを待って、とりあえず居間へと案内する。数歩歩いて、後ろを付いてきていないことに気づき、振り返る。彼女は三和土に立ったまま、妙に難しい顔をしていた。

「どうした。変なもんでもあったか」

「……家にいる人は」

「ん?」

「家にいる人は、"ただいま"と言われて、返事をするの?」

「あぁ、そうだな。"おかえり"と返すのが普通だ」

 そこで気づいたのだろう。彼女が何かを無理矢理飲み込んだような顔をした。それから、とぼとぼと歩いて彼に追いつく。

 襖を開けると、出て行く前と何ら変わらない茶の間が現れた。湯飲みや茶菓子や書類などを入れていた茶箪笥。テレビとDVDデッキは祖父母が彼のために買ってくれたものだった。まぁるいゴミ箱、2ヶ月前で止まった壁掛けのカレンダー。中央にでんと置かれたこたつで、剥いてもらった蜜柑を食べたり祖父と将棋やオセロをしたり、除夜の鐘を聞きながらうたた寝をしたりした。隅に真新しい段ボールがいくつか積んであって、それが彼の引っ越しの荷物の全てだった。

 漂う思い出を横切って障子を開けると、そこはガラス戸に守られた縁側。雨戸を開け放ったまま出かけてしまったのが気がかりだったが、幸い何事もなかったらしい。その向こうの庭は、一面に雪化粧を施されて静かにそこにある。夏になると早朝、蝉の羽化を見ることができた。縁側に腰掛けて西瓜を食べたり、花火をしたりした。秋と冬は祖父がストーブを持ち込んで、褞袍を着て「月見」「雪見」と酒を飲んでいた。春は「花見」になった。二十歳になったら一緒に飲もうと言っていたが、彼が高校にあがった年、その約束は永遠に果たせなくなった。茶の間も縁側も、家中が、今はすっかり冷え切っている。

 振り返ると、きょろきょろと物珍しそうに室内を見回す彼女の姿があって、そこではて、と首を傾げた。客人は、もてなさなければならない。しかし、彼女はどうやってもてなせば良いのだろうか。まさかこたつをつけて「入って待っていてくれ」とは言えない。溶ける。

「とりあえず、その辺で座っていろ。何かあるか探してくる」

 隣接する台所は、主を失ってしんと冷え切っていた。以前は祖母がそこに立っていて、軽快な包丁の音と共にいくつもの料理を瞬く間に作り上げていた。時々ちょいちょいと手招きをして、高いところにある器具を取るように頼まれた。並んで料理を教えてもらうこともあった。あれは、きっと今のような状況を見越してのことだったのだろう。

 冷蔵庫には日持ちするもの以外出せそうなものは何もない。菓子置き場も覗いたが、親戚が持って行ったのかやはり何もなかった。茶を沸かしても飲めるわけがない。冷蔵庫補充も兼ねて買い出しに出た方が良さそうだ。

「悪い、出せるものが何もない。買い出しに行ってくるから、待っていてくれ」

「わ、私も!」

「あんたが来たらスーパーの客やら売り物やらが皆冷えてパニックになる。大人しく待っていろ」「……わ、かった」

 渋々と座り直して、しかし彼女はまた、何かに気づいたように首を傾げた。

「さっき、帰ってきた人の挨拶が、あった」

「あったな」

「出かける人の挨拶は?」

「……帰ってくることを前提に出かけるのなら、出かける人が"いってきます"、見送る人が"いってらっしゃい"だ」

「へぇぇ……」

 彼女が納得したのを見届けて、茶の間を出がてら放った言葉は、完全に無意識だった。

「じゃ、行ってくる」

 そして。

「……あ! "いってらっしゃい"!」

 彼はその言葉を、本当に久しぶりにかけられたことに気づくのだった。入院する前の祖母にかけられたのが3ヶ月以上前。それ以来、誰からも「いってらっしゃい」なんて言葉を、かけられなかった。覚えた子がその場で言えるようなありふれた簡単な言葉なのに。ずっと言ってくれた人は、彼の周りにたった3人しかいなかった。

 ひらりと手を振って、彼は茶の間を後にした。振り返ることは、できなかった。

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