O4-3
先に気づいたのは当然ながら子猫だった。彼女の雪を踏む足音とは明らかに異なる足音が聞こえてくる。彼女よりも重くて、速い。ちらり、と後ろを振り返るなり、子猫は大いに顔を引き攣らせて、ひょい、と彼女の肩に飛び乗った。
「みゅう、絶対振り返らないで。足も止めちゃだめ。いる。五軒くらい後ろ、何かいかにも怪しい。明らかに僕たちの後を追いかけてきてる」
「―!!」
竦みそうになる足を子猫の叱咤を受けてどうにか動かす。積もった雪でまろびながら、気づいたと気づかれないように、先ほどよりもほんの少し早足で。手の先が寒さと恐怖で痺れ感覚がない。温めようと吐く息も、がくがくと鳴って合わない歯の間から細く漏れるばかり。合わせた手を祈るように固く握りしめた。どうか、あと少しだけ、家に入るまで追いつかれないで。不意に、強張った肩から子猫が飛び降りた。
「みゅう駄目だ走って! 向こうが走り出した! 追いつかれる!」
そのまま勢いよく走りだす。引きずられるように彼女も駆けだす。雪に足をとられながら両腕をもがきかき分けるように動かして、何とか転ぶまいと走る。そのうち、彼女の耳にも聞こえてきた。重い足音、忙しない息遣い、その合間合間に混ざる、地獄の宙を彷徨うような声。
「……てぇ、待てぇ、捕まえるぞぉ、ほぉら、追いつくぞぉ……」
「っ――!!」
耳に纏わりつくその声を振り払うように首を振って、彼女は走る。先を走っていた子猫が振り向くなり目を剥いたのが見えた。生温いどろりとした空気が背筋をなぞる。子猫が雪を蹴ってこちらへと飛びかかった。咄嗟のことに足を止められず、目だけで顔の間近まで迫る姿を追う彼女の肩に、一度飛び乗り、それから。
「みゅうは絶対足を止めないで。逃げて」
一瞬の交錯でそう囁くなり、子猫は肩を強く蹴って彼女を強く押し出し、まさに彼女の腕を捕えようとした男のその手に思い切りかぶりついた。
「っでぇぇぇぇ!!!!!」
身も凍るような断末魔を背に、彼女は雪を散らして走る。翻る髪の先まで子猫を案じながら、子猫の名前を心の中で何度も叫びながら、それでも彼の言葉を遂行すべく走る。
「だ、いで、が、でめ、っにずんだぁごのぢぐじょうがぁぁぁ!!」
背後で男が吠える。怒気が押し寄せる。続いた鈍い音に彼女の足は思わず止まった。音に紛れた小さな悲鳴を、耳が拾ってしまった。今の音は、何がどうなった音。恐る恐る振り返る。真黒な巨体の男が血の滴る腕にふうふうと息を吹きかける姿が、まず目に入った。雪明りが反射した顔は幾つもの爪痕で真っ赤だ。では、それらを残した子猫は、どこに。
「さく、き……?」
反射で自分の足元を見た。肩を擦ってみた。いない。塀の上、路上に積もった雪の上、どこにもいない。子猫の黒は雪の白によく映えるはずなのに、闇に紛れてしまったように見つからない。
「朔鬼っ!?」
名前を口に出した瞬間、ぬるりとした視線を受けて息が詰まった。腕から顔を放した男がこちらを向いて口元を弓なりに歪めていた。
「なぁんだぁ、この畜生はご丁寧に名前までもらっているのかぁ、贅沢だなぁ」
よっこいせ、と身体をかがめて塀の下から摘みあげた存在が、最初何かわからなかった。されるがままにくたり、と首根っこを掴まれてぶら下がっている、黒くて小さな、それは。
「お仕置きだよぉ、畜生のくせに人間様に盾突こうとするなんてぇ、なぁ!」
丸太のような腕がうなりを上げて振り回される。その手に掴まれた子猫も、されるがままに振り回される。そのままの勢いでもし手を離されたら、もう一度思い切り塀に叩きつけられたら、彼は。
「や、だめ、やめて」
彼の方へ一歩踏み出す。その姿を見た男が歪んだ口を開けて嗤う。
「いいねぇ、いいよぉ、その顔ぉ、ぼくはぁ、その顔がぁ、大好きなんだぁ」
凄まじい嫌悪感が彼女を追い詰める。白い息が忙しなく吐き出される。心臓が激しく脈打つ。身体の奥の奥で、何かが蠢きだす。
「お仕置きしてぇ、その顔が絶望に染まったらぁ、君も美味しぃく食べてあげるからねぇ」
待っててねぇ、と小首すら傾げてみせ、その男は一際大きく腕を振るった。
どんなに走っても間に合わない。手を伸ばしても届かない。止まらない。解放されない。醜悪な欲が振り下ろされてしまう。明るくて元気な、どんな時も側にいてくれる大事な大事な彼女の相棒を、理不尽に奪い去ってしまう。
「ぞぉぉぉぉぉらぁぁぁぁぁ!!」
取り戻すのだ。彼を。何としても、……どうなっても。
「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
一刹那、雪を抱いた突風が男に殴りかかった。




