M4-3
鳥居を抜けて降り立ったのは、青年のいる町から少しだけ離れた、山間の集落。本来は雪深い村で、町とつながる唯一のトンネルが塞がれれば簡単に孤立してしまうような所だった。しかし、彼女が担当になってからは随分と積雪量が減っている。今年も場所によっては道路の色が見えており、そびえる両山の木々も寒々とした肌を見せていた。庭の木々に耐雪の備えをしている家もあるにはあるが、添え木一本つけただけの簡素な対策をする家も多い。外を歩く人々も多くが一般的な防寒具を身につけるに留まり、踵のある靴を履いている女性も見受けられるほどだ。そんな村の上空に当代刹梛伎が着物の裾をなびかせて降り立つと、すぐに雪が舞い始めた。徐々にその勢いを増し、風を伴って道行く人々の視界を覆う。慌てた人々が足早に歩き出すのを尻目に、当代は未だ従者に支えられて立つ自らの後継者を振り返った。
「さて、では、試すとしようか」
「……ためす?」
従者の両肩を支える手の力がより強まるのを感じながら、違和感に呟く。そんな彼女に笑みすら返しながら、当代はゆっくりと右手を上げた。途端、途方もない恐怖が彼女を襲った。
「い、や、いや、離して、おねが、離して!」
身を捩って逃れようとしても、従者の手は離そうとしない。こちらに伸びてくる美しい白い手が訳もわからず恐ろしくて恐ろしくて、従者の手を外そうと懸命にあがく。爪を立て、ひっかいて、足を蹴って、腕をがむしゃらに振り回す。けれど、彼はうめき声1つあげない。ただただ強く、彼女の肩を押さえつけるだけ。絶対に離してくれない意思を感じて彼女は戦慄した。理由なんてわからない。けれど、あれに触られたら、お終いだ。
「いや、いやだ、それは、いや」
激しく首を振って身体を捩って抵抗する。鏡の前で綺麗に結べた帯の蝶がその羽を折られる。丁寧に結い上げた白銀の髪が乱れ、青の曼珠沙華が悲鳴を上げる。白い掌が迫る。見開いた彼女の目から涙があふれる。そして。
当代の掌が彼女の両目を覆ったその瞬間、彼女の意識は途切れた。
何かとても冷たいものが背筋を駆け上がってきたような気がして目を開くと、見慣れない天井があった。2、3度瞬きして、横を向こうと首を動かす。途端頭痛に見舞われて呻いた。
「彗姫?」
意外と近くから声が聞こえてきて、薄く目を開く。布団のそばで彼女の従者が跪いていた。
「ご気分は」
「……あたま、いたい」
「失礼」
身構える隙もなく、額の上にヒヤリとした手が乗った。雪神の眷属はその性質上手が冷たいが、彼はその中でも特に冷たい、と思う。もっとも、相対的に比較できるほど、彼女は仲間の手の温度を知らない。最近特に冷たいと思うのは、おそらく比較対象があの青年だからだ。
自分の額から伸びる従者の腕を見て、それから彼の膝から垂れる手の甲を見て、その痛々しさに胸が痛んだ。
「……ごめんなさい」
「何がです?」
「その、手」
「……あぁ」
一瞬それに目をやると、彼はひらひらとその手を振った。
「お気になさらず。……対価としては、安いものです」
「……たいか」
ぼんやりと繰り返して、彼女は首を傾げた。
「対価?」
「はい」
「……何の?」
当代と彼と一緒に、集落に降り立ったのは覚えている。そこで、従者の手を振り切ろうと暴れたのも覚えている。
でも、どうして自分は暴れたのだろう?
彼女の問いに従者は答えない。ただ、苦笑だけを浮かべて彼女の額に傷だらけの手を置いている。それがだんだん心地よくなってきて、彼女はゆっくり目を閉じた。ゆるゆると眠気が這い上がってくる。
まぁ、良いか。
「……『試練』は」
「……無事、与え終えました」
「そう……。結局、私が、行かなくても……良かった、のでは……ないの……」
それきり、彼女の意識は再び穏やかな闇に委ねられた。




