Memory4 覚醒―ソノテダテヲ―
朝の雪浴を済ませ、結晶模様の散る、白から藍への濃淡が美しい着物に袖を通す。濃い銀の帯を慣れた手つきで締め、鏡を見ながら背中の蝶を整える。姿見の前に座し、白銀の髪をまとめると、青の曼珠沙華の簪で手早く留める。立ち上がり、おかしな所はないかと鏡の前で軽く1回転してみた。もうすっかり馴染んだ身支度を、最近は心なし丹念に行うようになっていることに、彼女は気づいていない。今日は何を教えてくれるのだろう。どんな話を聞かせてくれるのだろう。廊下を歩く足取りが、最近心なし軽いことにも気づいていない。彼には怯えなくて良い。引け目を感じなくて良い。俯かなくて良い。きちんと自分と話をしてくれる存在が、こんなにも良いものだったとは思わなかった。いそいそと屋敷の引き戸を開けた彼女は、そこでピタリ、と足を止めた。
「彗姫」
玄関前の柱に、彼女の唯一の従者が身体をもたせかけて立っている。反射的に右手が動き、戸を閉めた。断じて現実逃避などではなく、不可抗力である。2、3度深呼吸をし、念のため両目をこすって、もう一度ゆっくりと、祈るように開く。
「……気は済みましたか」
寸分変わらない光景に肩を落とした。規則的な足音が近づき、すぐに視界に深藍の袴の裾が現れる。
「今日も、あの人間のところに行く予定でしたか」
とうに見透かされている。予定、という言い方は少し意地悪だ。自分にそれ以外の予定がないのを知っているくせに。自分が彼のところに日参していることを、知っているくせに。
「……別に、良いでしょう。いつものことだもの」
「……今更悪いとは申しません。もちろん良くはありませんし、早急に記憶を奪って関わらずにおいていただけるのが最上策なのですが」
思いがけず身体が震えた。青年から、自分に関するあらゆる記憶を奪う。全てなかったことにする。それは、そう遠くない未来に自分がしなければならないことだった。彼と師弟の関係を築き、人間の在り方を知り、命を手中に扱う神として、自分の中で答えが出せたら、そこでお終い。最初に従者に告げたことだった。
「明確な目的を持って接しているのであれば、姫に害がない限りは放置して良い、というのが当代の意向ですし、それに関して私如きが口を挟むことはありません」
では、明確な目的がなくなったら。当代が「害」と判断したら。彼は。
無性に、彼に会いたくなった。会わなければならないと思った。一方で、このまま順調に日々会っていたら、「その瞬間」が早まりそうな気がして怖かった。
すっかり動かなくなった彼女を前に、従者はしばし間を置いて、それからぽつり、とそれを告げた。
「……残念ですが、今日はその予定をお取り止め下さい」
「……え」
思わず顔を上げると、従者は藍色の瞳を少しだけ細めて、彼女を見下ろしていた。同じ色の髪が、そよりと吹いた風に煽られて舞う。
「当代刹梛伎がお呼びです」
嫌な予感がした。




