O3-3
その手が、記憶の蓋を開ける鍵の1つだったのかも知れない。彼と別れた直後、わずかに開いた蓋の隙間から、ゆるり、とまるで煙のように、声が、言葉が、景色が、わき出て脳を満たした。
『俺は別に良いんだよ。あんたが楽しいんなら』
知っている茶の間で。
『あぁ、そうか。そうだよな。普通そう持つよな。俺が悪かった。だからとりあえずそれから手を離そう』
知っている台所で。
『……あんたがそんな顔をしなくて良い。これは、俺の抱えるものだ』
見たことのある町並みで。
『……何をどう解釈したらそうなる……あぁ、いや、別に怒っている訳ではないんだが……』
まるで病院のような、真っ白な空間で。
『あんたは、そうやって、表情がころころ変わっていた方が良いよ。こないだみたいな暗い顔より、ずっとな』
厳かな月明かりに照らされながら。
『ん? あぁ、良いよそのままで。俺がやっておく。ゆっくりしていろ』
柔らかな日の光を浴びながら。
『……俺も、ずいぶんあんたに甘い自覚があるんだがな……』
ただ、彼の姿だけが、朧で。
「……う、みゅう!」
「さ……く、き……」
頬を柔らかいものでふたふたと叩かれて薄ら目を開けると、前足をこちらに伸ばした子猫の顔が間近にあった。
「ちょっと、ねぇ、大丈夫? 玄関入った瞬間、いきなり膝から崩れ落ちたんだよ? どこか打った? 頭痛い?」
「だいじょうぶ、じゃ、ない……」
そのままごろり、と仰向けになる。コートの向こう、僅かに伝わる床板の固さと冷たさが、天井に下がる電球のしんとした灯りが、おでこをゆっくり撫でる子猫のしっぽのふかふかした毛並みが、彼女を徐々に現実へと引き戻していく。
「さくき」
「何?」
「い、た。いた、よ。わたしのなかに、たしかに、いたよ」
「……みゅう?」
眦から零れた涙がこめかみを滑っていく。滲んだ天井の灯りが幾重にもぶれて、見ていられなくて腕で隠した。頭が重い。心が容量オーバーを訴えている。中途半端に漂う懐かしさと苦しさと切なさと温かさと、言いようのない感情たちがせめぎ合い、叫びだしたかった。
「みゅう、まさか、記憶が戻ったの?」
ようやく事態を把握した子猫が口調も強く問うてくるのに、あごを引くことで答える。
「全部?」
「全部じゃない。すごく、断片的」
「……そっか」
もう一粒こめかみに零れた涙を、ざらりとした感触が掬い取っていった。2,3度舐めて、ぐりぐりと頭を押しつけられる。床に落ちたままの手をのろのろと上げて、ゆっくり撫でてやった。さわり心地の良い毛並みと体温に、徐々に息が楽になる。ゆっくりと身体を起こし、少しの眩暈をやり過ごすと、床から子猫がこちらをまっすぐに見上げてきた。ぱたり、と1つ尻尾が床を叩く。
「……ご飯にしようか」
「大丈夫?」
「大丈夫」
翌日会った青年が第一に発したのは、彼女を案ずる言葉だった。
「顔色が少し悪い。昨日も少しぼーっとしていたし……体調を崩しているんじゃないか?」
「……昨晩、勉強して夜更かししてしまって」
大丈夫なのかと心底心配げに問うてくる彼に、しかし昨日の記憶のことを話すのは何故か躊躇われた。話したとしたら、彼女が断片的とはいえ記憶を取り戻したと知ったら、どれだけ彼は喜ぶだろう。もしかしたらあの悲しい顔をさせなくて済むようになるかも知れない。そう思っても、どうしても、口を閉ざしてしまうのだ。心の奥底が、抵抗する。
大丈夫と繰り返すと、彼は怪訝な顔ながらもそれ以上は尋ねてこなかった。やっぱり彼は優しい。そしてやっぱり、自分はそれに甘えている。その罪悪感が、少しだけ彼女を責めた。
「……ちゃんと、部分部分じゃなくて、ひとまとまりで思い出せたら、話そうと思う。私もまだ、思い出したこと、整理できてないし」
帰宅後座卓の上にぺしゃりと潰れた彼女は、今日新たにー昨日の量には遙かに及ばないがー零れ出た記憶に整理をつけようと呻いていた。
「でも、疲れてる」
伸ばされた両腕の間に座り込んで、子猫ははぁ、と小さなため息をついた。
「これ、明日も疲れが取れないんじゃないの?」
案の定、翌朝鏡に向かうと、少しだけ青い顔をした自分がいた。ため息を吐いて顔を洗い、やっぱりか、といった顔の子猫とご飯を食べて、簪で髪を留め、ブーツに足を突っ込んで家を出た。今日は青年と会う予定はない。授業を受けてアルバイトに行き、子猫とゆっくり帰宅した。引き戸を閉めながら、今日も来るかと身構える。ーが。
「……あれ」
「みゅう?」
「……記憶が、来ない?」
「……へ?」
その後も布団に入って目を閉じて、意識が遠ざかる直前まで心の構えを解かなかったのに、記憶の煙が滑り出てくることはなかった。
「……もう、ないのかな」
「さらに鍵がいる、とか」
翌朝子猫と首を傾げながら、どこか安堵と残念さが混ざり合った気持ちを抱く。そんな気持ちで彼と待ち合わせし、少しお茶をして、送ってもらって帰ってきた、その矢先。彼女は再び床に倒れていた。
「……どういうこと?」
掠れた声が宙を漂う。もはや記憶の内容どころではない。いや、決してどうでもよくはないのだけれど、目下の問題はそのタイミングにある。
「……鍵は、あいつなんだよ」
冷めた声を耳が拾った。子猫がむっとした顔で顔の隣に座っている。尻尾がぱったんぱったん、小刻みに床を叩く。
「あいつがみゅうの蓋を開けた。だから、あいつに会うことで思い出す仕組みなんだ」
「……なるほど」
子猫は爪音を少し鳴らしながら腹の横まで歩いて行くと、尻尾一振り、その上に飛び乗った。ぐえ、と品のない声が彼女の口から漏れる。お構いなしにのしのしと身体の上を歩いて、胸の上で座り込む。金に光る目が彼女を真っ直ぐ射貫く。
「で、どうするの」
「どう、する、って?」
「あいつと会えば、みゅうは記憶を取り戻す。でもあいつに会うと、みゅうはとても疲れる」
会うのか会わないのか。会うとすれば、どのくらいの頻度で会うのか。その決断を、子猫は迫っているのだ。
「毎日これじゃ、みゅうの心が持たないよ。記憶がみゅうを苦しめるのなら、僕は無理しなくていいと思う」
ひくり、と彼女の手の先が動いた。子猫の言葉は優しい温度で彼女の思考回路を巡る。少し前の彼女なら、即刻その温かさに飛びついて埋もれていた。しばらく、今の記憶と心の整理がつくまでは、理由をつけて会わない。そう決めていた。でも、今は。
「……でも、忘れたままじゃ、トーヤの目は、ずっと、悲しいまま。それは、私も、悲しい」
顔を腕で隠したままそう絞り出す。恋人というにはまだ実感が遠すぎる、初めての友人。こんな断片的なものではなく、声の主の顔までもきちんと記憶を取り戻せば、漂う感情たちにあるべき形を与えてあげられれば、彼とちゃんと対等に付き合うことができるような気がするのだ。恋人云々の話は、そうすれば自然と結論が出るのではないか―それは、甘い考えかもしれないけれど。
「……みゅうがそう決めたなら」
子猫が静かに胸の上を歩き、あごに前足を置いて口元を舐める。
「大丈夫。どんなみゅうでも、結末がどうなっても、いつだって僕は一緒にいるから」
もぞり、と動いた彼女の両腕が子猫を掴む。ごろり、と横に転がりながら抱きくるんだ。
「ありがと」
「なんの」
この小さな相棒がいるから、彼女はどんなに苦手な雪が降っても逃げ出さずにいられる。




