M3-2
「病院から連絡があった時には驚いたぞ」
「だよな。心配かけてごめん」
「とりあえずうちに残っていた着替えを持ってきた。足りない分は買って入れておいたから、洗濯機を使わせてもらったら十分保つだろう」
「あぁ。助かる」
「……かあさんも、心配していたぞ」
「めぐみさんが?」
「落ち着いたら電話くらいしてやれ。巧哉も喜ぶ」
「……電話したところで、めぐみさんが巧哉に代わってくれるとは思えないけど」
「……かあさんだって、あれから、多少は落ち着いたんだぞ」
「そうかな。めぐみさんからしてみれば大事な跡取り息子なんだから、早々落ち着くとは思えないんだけど」
「おまえは……」
「わかってるよ、自分のしたことくらいはさ。だから、このくらいの距離で良いと思ってる。俺が関わらない限りはそっちもまぁまぁ平和だろ。じいちゃんとばあちゃんが俺に遺してくれた分でやってけるから、そっちの家計を圧迫することもない。入院費も自分で出せるから、大丈夫だよ」
「……かたないな」
「巧哉は受験するんだろ? 父さんもそっちのこと考えていないと、めぐみさん機嫌悪くするよ」
「……本当、おまえはしっかり者だよ」
あまりの茶番に反吐が出そうだった。
昔から、今もちっとも変わらない。母親を失ってから、この父親は、1度たりとも彼の顔を真っ直ぐ見つめて話をしたことがない。会話の中で目が合ったことがない。仮に偶然目が合ったとして、それが数秒保ったことがない。その意味がわからないほど、彼は馬鹿でも鈍感でもなかった。わかっていながら、気づかず物わかりの良いふりをしているだけ。ただただお互いの口から発せられ宙を漂うこの言葉たちに、意味も価値もありはしない。
しっかり者なんて美しいものなんかじゃない。ただ、諦めただけなんだ。あんたは自分の息子が、どれだけ冷めた目であんたを見ているか、知らないだろうけれど。
バン、と窓ガラスが音を立てて震えたのはその時だった。立て続けに2度3度と激しく鳴る。まるで何かでガラスを勢いよく殴りつけたような、そんな音。反射的に振り向いた青年の口から、「は?」と至極間抜けな声が漏れた。窓の先で、舞う雪が巨大な拳を形作り、ゆっくりと振りかぶっている。
「な、なんだ」
後ろであがった狼狽えた声に慌てて振り向いた。
「ここ、地形上風の吹きだまりみたいで、たまに窓に当たるんだよ。気にしなくて良い」
そう言っている間にも、先ほどよりはかなり控えめに、今度はさながら誰かが外から窓をノックでもしているかのような強さで、数度鳴る。努めて気にしないようにしていた彼も、父親の気もそぞろな様子にとうとう白旗を揚げた。
「父さん、悪いんだけど、下の売店でスポーツドリンク買ってきてくれない? さっきリハビリから帰ってきたばかりで、水分補給がしたいんだ」
「あ、あぁ」
いそいそとカーテンをくぐっていったのを見送って、足音が完全に聞こえなくなったのを確認するなり、彼は手を伸ばして勢いよく窓を開けた。
「おい! 何やってんだあんた!」
ふわ、と冷気と共に粉雪が舞い込んで、あっという間に人の姿となる。現れた雪姫は、そこに立ち尽くしたまま、じっと彼を見下ろした。あんまりに真っ直ぐに見つめられて、先ほどの怒気がどこかに飛びそうになる。
「あんな派手なことして、何のつもりだ。何がしたかったんだよ」
先ほどよりも幾分柔らかくなってしまった問いかけに、彼女がしぶしぶ口にしたのはただ一言。
「……気持ち、悪かった」
うまく飲み込めず、喉が詰まる。
「……は?」
「あんな、変な笑い方、見たことない。……怖くて、濁って、変」
努めて大きく息を吐き出そうとした。喉の引っかかりがなかなかとれなくて、2、3度喘ぐように空気を求めた。
「……あんたな、もう少し言葉選べよ」
絞り出した声が墜落しそうな低空飛行状態で、いっそ俯せに倒れたかった。そんなこちらの心中など知らず、目の前の雪女はこちらを見下ろしながらぶつくさと続ける。
「本物じゃ、ない。偽物、なのに、あの人、気づかない。変」
「あー、わかった。わかったから、その妙な責め方をやめろ」
思わず自分の額を掌で押さえていた。本当に言葉を選ばない。感じたことを飾り1つつけないで、こちらの気も苦労も知らないで。やりにくいことこのうえない。
追及の声はやんだものの、顔の半分に刺さる視線が説明を求めている。どうしたものか。はぐらかせば、あるいはこの前のように威圧すれば、聞いてくることはないだろう。彼女は意外とそういったことに敏い。しかし今回は、完全にこちらが疑問の種を植え付けてしまっている。今後の『講義』のことも考えると、全く触れない、ということはありえない。うっかり肥料を与えてしまって余計な詮索を増やされるより、いっそさっくり説明してしまった方がマシなのではないか。
顔から手を離し、ため息交じりに彼女を見上げた。
「あの男が帰ってから説明してやるから、とりあえず外に出ていろ」
「……長い?」
言外にあまり長くは待たない、と言われて口の端が持ち上がった。彼女の眉が寄る。あぁ、自分は今、彼女の嫌いな笑い方をしている。
「いいや、あいつはすぐ帰る。もともとこの町が好きじゃないからな。体裁を整えたいだけだ」
当然これで彼女が納得するわけがないとわかっていたが、あとで話す、という彼の言葉に一応は従うらしく、ふい、と姿を消した。ついでに窓が音も立てずに閉まった。それがまるで旅館の女将が客室の引き戸を閉めるような滑らかさで。先ほどの荒々しさは何だったのだと、無性におかしくなった。




