Memory3 探温―セナカアワセ―
その客は唐突にやってきた。
車椅子移動から松葉杖移動に切り替わり、青年の自由行動幅は格段に広がった。そうなれば少しでも身体を動かしておかないと、すっかり衰えた体力と筋力がいつまで経っても回復しない。切り替わった初日、試しにエレベーターを使わずに1階の売店まで行ってみたら見事にふらふらになったことが、青年に少なからず衝撃を与えていた。運動神経にも体力にも自信があった。それがたった数週間でここまで意のままにならないとは。ましてや助けられてしまった以上、このままならばーあの雪娘の気が変わらない限りは、ずっと1人で暮らしていく身だ。病院の世話になっているうちに、できる限りもとの体力に近づけておきたい。そう心に決めて、併設されたリハビリセンターに通い始めた。もっとも、最初の数回は往復が精一杯で、行って休んで帰ってきて、という、何のために行ったのかわからないような内容だったが。今日も無駄に汗だくになり、ため息をつきながら病室に戻りカーテンを引いた、その瞬間。例の雪娘が真っ青な顔をして詰め寄ってきた。思わずバランスを崩しそうになって、松葉杖を挟んだ両脇に力が入る。
「ど、どこ、行って!」
「どこって、リハビリだけど」
「聞いて、ない!」
「言うほどのことでもないだろうが」
途端目元に一瞬険が走ったのを、青年は見逃さない。む、と口を噤んでうなだれる、そのつむじを見ながら首を傾げた。何が気に入らなかったのだろうか。
「……た、のに」
「は?」
掠れた訴えを耳が拾って、問い返す。
「何? 聞き取れなかったんだけど」
「……さ、がした、のに!」
こちらにつむじを向けたまま、吐き出された言葉にぽかん、と口が開いた。
「探した?」
「部屋、いなくて、屋上とか、中庭とか、また、立ってたら、って」
ぽろぽろと零す彼女の言葉を拾い集めて、合点がいった。ベッドの上に勢いよく腰を落とし、松葉杖を壁に立てかける。そうすると彼女の俯いた顔がよく見えた。
「前に言ったろ。俺の命はあんたが握ってるんだ。今は『人間のことを教えて欲しい』と言われたからその通りにしている。勝手に投げ出してどっか行くことも、命を捨てることも、あんたが望まない限りしないさ」
そんなことは彼女だって重々承知の上だろうに。そう思いながら至極当然のように告げると、きゅ、と唇がきつく結ばれるのが見えた。眉が寄って、何かをこらえるような、納得していないような、難しげな顔をしている。てっきり「それならいいけど」とでも言われるかと思っていた青年は首を傾げた。汗だくの身体が彼女の冷気に当てられて少し冷え始める。これではまた風邪を引きかねない。
「あのさ、着替えたいんだけど」
少女は動かない。
「おい、聞こえてるか」
反応はない。何を考え込んでいるのやら俯いたままピクリともしない。手を伸ばして、しばし迷って、結局着物の袖を掴んで引っ張った。わ、と声を上げてよろけた彼女が非難の目を寄こす。心外だ。自分の服に手をやって、ゆっくりと言ってやる。
「着・替・え・た・い・ん・だ・け・ど」
今度はきちんとこちらを向いているはずなのに、目をぱちくりさせたまま、それでも彼女からは動く気配がない。小首まで傾げられて心底困惑したのは青年の方である。なんだこいつは。神様は人様の着替えを見ることに何の抵抗もないのか。一応年頃の娘だろうに、それでいいのか。こいつまさか自分が着替える時も所構わず人目構わずなんじゃないだろうな。くっついている従者とやらが苦労しそうだ。
見られながら着替えるのは男でもかなりだいぶ相当気まずい。だからといって風邪を引くわけにもいかない。汗だくのまま布団に入るのも抵抗がある。仕方がないから上着だけでも着替えようと、ギプスのついていない左手で裾を掴んで一気に頭を引き抜いた。途端。
「ひぇあ!?」
悲鳴があがった。一瞬でその姿が消え、後ろで窓際に置かれた椅子が騒々しい音を立てる。真横で瞬時発生した冷たい風に、汗ばんだ裸の身体が粟立った。慌てて右腕を抜き汗を拭いて乾いた服に袖を通すと、青年は思いきり振り返り、布団を左拳で叩きながら同室の人間に不審がられないギリギリの声量で叫んだ。
「だから言っただろ!!」
「ご、ごめ、なさ……!」
「また風邪引かす気か!!」
その時、こちらに背を向け、椅子の上で縮こまっていた彼女が不意に顔を上げてこちらを見た。顔、赤い。そう思った一瞬のちにその姿は掻き消え、カーテンの向こうから規則正しい足音が聞こえてきて。
「……」
顔をのぞかせたのは、五十の足音が聞こえ始めるであろう年程の男性。スーツを着こなし、片手にスーツケースを、もう片手にコートをかけ、肩からは大きなバッグを提げている。青年に似ているところがあるとすれば、背の高さと髪質くらいだろうか。
「……調子はどうだ」
完全な無表情でその男を見上げていた青年は、やがてゆっくりと口元を歪めた。
「……おかげさまで、だいぶましになったよ」
久しぶりだね、父さん。そう囁く声はどこまでも穏やかなのに。
自分の父親を前に笑みの形を作って細められた瞳は、どこまでも冷え冷えとしていた。




